あなたの血肉はイチゴジャムサンド《3》

 広場に集まる群衆の中は、クラリスの想像を絶する状態であった。

 暴力、暴言はもちろんそうだが、所々にナニカの塊が落ちていて、群がった人々やカラスが一心不乱にそれを口にしているのだ。


 ――これじゃあゾンビ映画じゃない。あの人達が食べてるのは……だめ。人が密集していてここからは見えない。


 クラリスが背伸びして見たところで、その正体は分からない。

 しかしそんな思考を邪魔するほど、特に酷いのは臭いだった。ヴィクターと同じ、エイダのイチゴジャムサンドクッキーの香りがそこら中から香っているのだ。

 ここまで強い香りは、好き嫌いのレベルどころか、もはや嫌悪感を抱くレベルである。



「ヴィクター……この臭い」


「ああ。さすがのワタシにも分かるよ……。不快ならばこのハンカチを使いたまえ。いくらかは呼吸しやすくなるだろう」



 そう言って、ヴィクターがステッキの宝飾をクラリスの手に乗せる。

 小さな花火の破裂音と共にその手に乗せられたのは、手触りのいい真っ白なシルクのハンカチであった。

 言われた通りにクラリスが鼻や口を覆うと、石鹸の香りがわずかに甘い香りを軽減して、呼吸が楽になる。



「ありがとう。ヴィクターは大丈夫?」


「うん……。それにしても人が多いね……町の人口のうち、どれほどがエイダくんのクッキーを口にしたのだろうか」



 ヴィクターが何気なくそう言うと、不意に近くにいた男がこちらに振り返った。

 その男の顔を見て、とっさにクラリスがヴィクターの後ろに隠れたのは無理もない。

 男の目は血走っていて、合わない焦点はそのままに二人を睨みつけている。口の周りにベッタリ付いているのはジャムだろう。正気ではないのは、はたから見て明らかだったからだ。



「オマエ、今クッキーの話をしたか? なぁ、持ってるならくれよ……。少しでいいんだ。一個でもいい! 今日の分はもう食っちまったから、夜まで待たないといけないんだ。アレ以外、もうなにも食う気が起きなくなっちまったんだよぉ」


「残念だが、キミが望むものは持っていないよ。下がりたまえ」



 ヴィクターがしっしと男を払い除けるように手を動かす。

 だが、彼なりの気遣いで、簡潔に、分かりやすく断ったその言葉は、錯乱状態の男に届くことはなかった。



「アァ? 嘘つくんじゃねぇ。独り占めしようたって、そうはいかねぇぞ……つべこべ言う前に寄越せってんだよ!」



 男が急に大声を上げたかと思えば、彼は突如としてヴィクターへと飛びかかってきたのだ。

 クラリスから小さな悲鳴が上がる。

 彼女を庇ったままのヴィクターはステッキを正面へ突き出すと、杖先の苺水晶ストロベリークォーツへと魔力を送り込み――自分と男との間に七色の火花を伴う小爆発を引き起こした。

 男の体が宙を飛び、数メートル先に落下する。それ以来男が起き上がることはなかったが、なにやら呻いていることから生きているということだけは遠目にも確認することができた。



「チッ。対話すらままならない。人の知能を低下させる効果まであるのかね。あのクッキーには」


「ヴィクター! 怪我させるのはダメだからね! 少しおかしくなってても、ここにいるのはみんは一般人なんだから!」


「ふふっ、こんな狂人共の心配をするなんて、さすがクラリスは優しいねぇ。だがその点は問題ない。ワタシは約束を守れる男だから、出力はちゃんと最低限に調節したよ。ワタシがキミの前で、半端なB級スプラッター映画を披露するはずがないだろう」


「アナタなら、うっかり目を離した隙にやらかしそうだから言ってるの……! お願いだから穏便に済ませてちょうだい。せめてやるなら攻撃してくる人だけ!」



 これがクラリスにとっての最大限の譲歩であった。

 いくら守ってもらう身だからといって、ヴィクターに全て任せていたら、この場の秩序は無いも同然になってしまう。

 こうなにかにつけて一人一人を相手にするようでは、そのうち「全員吹き飛ばしてしまった方が早い」などと言って、広場ごと爆発させてしまってもおかしくはない。この男ならしれっとやりかねないのだ。



「……クラリスがそう言うのならそうしよう。幸運なことにも、アレらは基本的にはクッキーのことしか頭にないようだからね。周りで人が吹っ飛んでも、我関せずで駆け寄る様子すらない。先程のように触発しない限りは、襲われる可能性も低いだろう」


「アナタがわざと触発させる可能性は?」


「……限りなく低くなるよう、善処するよ」



 遠回しに釘を刺され、ヴィクターが苦笑いでそう答える。

 さっきから、彼の腹の中はぐるぐると魔力が渦を巻いているのだ。言うなれば、腹を下したような感覚に近い。


 ――周囲の臭いに当てられて、エイダくんの魔力が活性化しているのかもしれない。悪化する前にはここを立ち去りたいものだが……


 暑くもないのに、ヴィクターの背中はわずかに汗ばんでいた。

 今しがた起こした爆発のように、適当な理由をつけて魔力を発散させたいところではあるが……クラリス監視の元ではそうもいかなそうだ。

 彼女の他の人間達を巻き込みたくないという意見も、言っていることはヴィクターにも分かる。きっと、正気でない人間なら適当に転がしてしまってもいいのではないか? という彼の意見は通用しないだろう。



「それにしてもエイダちゃん、どこにいるの……。人が多すぎてワゴンも見つからない。ヴィクター、そっちはどう?」


「人の流れからして、あっちの方で間違いはなさそうだが……ん。あそこかな」



 集まった人々より、頭一つ飛び出たヴィクターが前方になにかを発見した。

 人の密集した広場の中心にあたる場所に、ワゴンが置いてあるのがわずかに見える。

 集まった人々がそれを囲んでいるのから推測するに、エイダがいるのはあそこで間違いないだろう。



「このまま真っ直ぐ行こう。ワタシでは余計なことを言いかねない。説得はクラリスに任せたよ」


「分かった、任せて。……あれ? ヴィクター……」


「うん? どうしたんだい」



 一瞬、ヴィクターの足元がふらついたように見えたのは気のせいだろうか。



「う、ううん。なんでもない。エイダちゃんの所に行きましょ」



 ケロリとした顔で自分を見下ろすヴィクターを見て、クラリスは思わず首を横に振った。


 ――今の……見間違い、だといいんだけど。


 彼女の心配をよそに、ヴィクターはステッキをコツコツ地面につけながら人と人の間を縫って進んでいく。

 彼が自分を置いていくことは無いが、それでも早く追わないといけないという気持ちに、クラリスの足が急ぎ足になっていく。

 一層濃くなる甘い香りの中心地へ向かうため、クラリスはより強くハンカチで鼻を押さえた。

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