あなたの血肉はイチゴジャムサンド《1》
《翌日――クラリスの宿泊部屋》
コンコン。遠慮がちにノックされたドアの音に、クラリスは見ていたスイーツ雑誌のページを捲る手を止めた。
時計の短い針はほぼてっぺん。時間だ。
昨日はあれからエイダを探しに町を歩き回ったが、結局彼女を見つけることはできなかった。準備をするのかと聞いて肯定をしていたから、きっと新たなクッキーを作りに帰ったのだろう。
ヴィクターから翌日を待って、確実に会える方を取ろうと提案が出るのは必然だった。
カフェで彼女に会うことができたのが、ちょうど昼頃。そのため今日の集合は昼になるよう昨日のうちに話し合っていたのだ。
もちろん、ヴィクターの体調が心配だったこともあり、ゆっくり休んでもらいたかったという思いもある。
「はーい」
返事をして、クラリスがドアの方へと向かう。
しかしドアノブに手をかけようとしたその時、わずかな違和感に彼女の動きが止まった。
――あれ。この匂い、なんだろう。……甘い匂いがする。
それまで感じることのなかった、甘ったるい匂いが廊下からクラリスの部屋へと漏れ出しているのだ。
その匂いは例えるなら、そう。甘酸っぱくて、朝食のパンにもピッタリなイチゴジャム。
――イチゴジャムといえば……エイダちゃん? まさか、あの子がここに?
クラリスが慌ててドアスコープから廊下の様子を覗き見る。……が、そこに立っていたのはもちろんエイダではなく、見間違えることはないヴィクターその人であった。
返事が聞こえたにも関わらず、クラリスが出てこないことを心配したのだろう。ヴィクターは不思議そうに首を傾げると、先程よりも大きな音でもう一度ドアをノックした。
「あっ、ごめんねヴィクター。今開けるから――うわっ」
「おはよう、クラリス。……どうしたのかね。そんなしかめっ面をして」
ドアを開けるやいなや、わずかにのけ反って鼻を押さえたクラリスがよほど奇妙だったのだろう。ヴィクターは日課である彼女への賞賛を始める間もなく、驚いた表情で問いかけた。
「おはよう……じゃなくて。この甘い臭い……アナタはなにも感じないの?」
「におい?」
ヴィクターが鼻をすんすん鳴らして周囲の確認をする。が、彼はよく分からないと言って廊下を見回すと、頭に大きなハテナマークを浮かべた。
どこかで香を焚いているわけでもなければ、香りの強い花が活けてあるわけでもない。本当に、そんな臭いがしているのだろうか。
「ワタシはなにも感じないが……キミ、甘いものを食べすぎて鼻がおかしくなったんじゃないのか」
「そんなわけないでしょ。……あれ。まって、ヴィクター。動かないで」
「クラリス? んー、クラリス。近くないかね?」
これはもう、いい匂いを通り越して悪臭だ。
クラリスはヴィクターに負けじと臭いの出どころを探るべく廊下を見回していたが、ふと、この臭いがイチゴジャムに近いことを思い出した。
エイダがいないこの場で、あのクッキーになにかしら関係のある人物がいるとなれば――それは彼女の目の前にいるこの男だけである。
ヴィクターの背後に、ポコポコと小さな花火が打ち上がる。
急に顔を近づけてきたクラリスに、はじめこそヴイクターは上擦った声を上げ、硬直したまま見守っていたが、やがて彼女が自分の体臭をチェックしているのだと気づいたらしい。
それまで恥ずかしそうに赤くなっていた顔が、スッと真顔に戻り、間もなく花火も収まった。
「……まさか、ワタシが臭いとでもいうのかい」
「うん。この臭い、やっぱりアナタから――」
「シャワーは浴びているよ。本当だ。ワタシがキミの前に出るのに、身だしなみを疎かにするはずがないだろう。ああいや、もしかして香水か? 昨日も一昨日もその前も付けていたはずだが……キミが気に入らないのならばブランドを変えよう。そうだ。今すぐにでも違うものを調達してくるから少しだけ時間をくれないだろうか。ダッシュで買ってくるからぁ……!」
彼は早口にそうまくし立てると、今にも駆け出してしまいそうな勢いで身を翻した。慌ててクラリスがコートの裾を掴んで止めたのは言うまでもない。
「そうじゃない、そうじゃないから落ち着いてヴィクター! たしかに香水も混ざって悪化してるかもしれないけど。この臭い、あのクッキーと同じな気がするの。でもアナタはなにも感じないって言うし……どこか体に異常はない?」
「ああ、そう……なのか。いや良かった……ワタシ自身は今日はすこぶる好調だよ。昨日の体調が嘘のようにね」
そう言われれば昨日は悪かった顔色も、少しはマシにはなっている。
彼の言葉をそのまま捉えるのであれば、イチゴジャムの体臭以外は問題ないと言えるだろう。
「きっと魔法が解ければ自然と治るだろう。ワタシのことは気にしないでくれ」
「そう……ヴィクターが大丈夫ならいいんだけど。少しでも気分が悪いと思ったらすぐに言ってね?」
「ああ。約束するよ。先程はつい取り乱したところを見せてしまったが……とにかく今はエイダくんに会いに行くんだろう? 彼女が町にいるうちに探しに行くとしよう」
ひとまずエイダが帰ってしまう前に彼女に会いに行かなくてはならない。それはヴィクターの言う通りである。
不安は残るものの、クラリスは彼を信じて、予定を変えずに町へと出ることにした。
「Um……初日のことを知っているだけに、ここまで人がいないのも少し不気味に思えてくるね」
「うん。エイダちゃん、大丈夫かな……」
町中を包み込む甘い香りは、昨日よりも一層濃くヴィクターを襲った。
通りを歩いている人間は、昨日見た時よりもさらに少ない。まるで最初に訪れた時の人の往来が幻だったと思えるほどである。
だが、今ならそのいなくなった人々がどこに行ったのか、クラリスにはなんとなく分かる気がする。あのクッキーが人づてに他の人間へと渡り、さらに多くの人間へ渡っているとすれば――
――多分、みんな行き先は同じなはずよね。人が多い所を探してみよう。
とはいえ、クラリスにとってアテがある場所は少ない。
考えつく場所として、彼女達はまずは昨日エイダに会ったあのカフェへと向かうことにした。
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