そのお菓子には不思議な中毒性があった《2》
《翌日――ヴィクターの宿泊部屋》
ヴィクターが昨日感じた胸焼けは、朝になっても治ることはなかった。むしろ、昨日よりも酷くなっているように思える。
――あのクッキーを食べた時から……いや、悪化したのはクラリスに付き合って夜に甘いものを食べすぎたせいか。なににせよ、今はあまり食欲がないね。
昔はどれだけ飲み食いをしてもピンピンしていたものだったのだが。まさか、これも歳だろうか。
サイドテーブルに置いていたペットボトルから常温の水を一口飲み、寝起き間もないヴィクターは気合いだけで重い体をベッドから立たせた。
呼び出したステッキを軽く一振りして床を叩くと、小さな花火の爆発音と共に身支度は完了する。クラリスには悪いが、こればかりは魔法使いの特権として楽をさせてもらうとしよう。
「クラリスは起きているだろうか」
部屋を出て、隣のクラリスが泊まっている部屋のドアをノックする。先日怒られたばかりなので、もちろん大声で彼女を呼ぶようなことはしなかった。
「はーい。あっ、おはようヴィクター。……なんか今日も顔色悪くない?」
「おはよう。昨日食べすぎたせいか胸焼けがしていてね……クラリスもワタシ以上に食べていたと思うが、キミはなんとも?」
「当たり前じゃない。デザートは別腹なんだから。昨日食べた分なんて、今回出店されているお店の四分の一にも満たないのよ」
「別腹もなにも、ほとんどデザートみたいなものしか食べていなかったじゃないか……」
思い出すだけでも胃がムカムカしてくる。
クラリスは既に着替えも済ませていたようで、会話もそこそこに二人はお祭り真っ只中な町へとまた繰り出すことにした。
――この調子じゃあ、今夜もスイーツフルコースをいただくことになりそうだね……
先日の山菜フルコースとは、また違った拷問だ。
どうせ食べるならば、せめて間に塩味のあるものを挟ませてもらいたい。そんな彼の思いとは裏腹に、町中を包み込む甘い香りは、昨日よりも一層濃くヴィクターへと届いていた。
「クラリス。今日のルートはもう決まっているのかね」
「もちろん! 昨日寝る前にスマホと雑誌を穴が空くほど見たおかげで、しっかりチェック済みなんだから。今日はチョコレート中心に攻めるわよ」
「チョコか……太らないように気をつけたまえ――いだっ」
そうヴィクターが言うと、力加減も無しにクラリスが思い切り彼の背中を叩いた。注意喚起をしただけだというのに、なんたる反応だろうか。
それからは、クラリスがあらかじめ調べてきたルートのおかげで店選びに迷うこともなければ、昨日のごとく人の波に揉まれることもなかった。
気のせいか、通りを歩く人の姿が少ないようにも思えたが、むしろそれは好都合だったといえよう。
二人がようやく休憩を取るべくカフェに入ったのは、太陽が頂点を過ぎた頃であった。
「ふぅ……さすがにちょっと休憩。ヴィクター、ずっと付き合わせちゃってごめんね?」
「クラリスが楽しいのなら、それでかまわないさ。つかの間の休息だ。ランチは好きなものを頼みたまえ」
「ありがとう。……うーん、どうしようかな。夜に向けて昼は軽めにしておこうかしら……」
テラスに席を取り、クラリスがメニューを見てうんうんと唸り声を上げる。……が、そんな彼女がメニューからこっそり目を離し、ヴィクターの様子を観察をしていたことに彼は気がついているのだろうか。
――やっぱり、おかしいわよね。あのヴィクターにしては、なんか小言も少ないし、静かすぎる。
このレベルで静かすぎる、と言い切るのもいかがなことかとは思うのだが。
普段であればヴィクターも何か昼食を頼むなり、自前のティーセットを取り出して迷惑にも好き勝手にくつろいだりするところであるのだが、どうにも今日の彼は気が乗らないらしい。席に着いてすぐに頼んだコーヒーに時々口を付けるくらいで、後はぼうっと通りを眺めている。
――いつもこれくらい静かならいいんだけど……特に怒ってるわけでもないし、朝から体調悪そうにしてたから、そのせいかしら……
だとすれば、今日のところは予定を切り上げて早めに戻るとしよう。時間はまだまだたくさんあるのだ。急がなくても問題はない。
「ねぇヴィクター。お昼を食べた後なんだけど、やっぱり今日は――」
「あっ」
そうクラリスが切り出したところで、ヴィクターが短く声を上げた。どうやら通りの方でなにかを発見したらしい。
彼の視線を追ってクラリスも通りへ目を向けると、そこには小さなワゴンが停まっていた。
「わぁ、凄い人だかり。今日は歩いてる人が少ないと思っていたけれど、あそこにみんな行っていたからだったのね。ヴィクター、あそこが気になるの?」
「気になる……という程でもないが。あのワゴンと店主には見覚えがあってね。クラリスは昨日ワタシがキミの元を離れて、反対側の通りを見に行った時間があったのを覚えているかい」
「ええ。ヴィクターが野次馬しに行った時よね」
「人聞きが悪い言い方をするね……とにかく、その時にも人だかりができていたのが、あのワゴンだったのだよ。見かけないと思ったら、今日はここに店を出していたのか」
ヴィクターの言葉を聞いて、クラリスが改めてワゴンとその周りに群がる人々に目を向けた。
ワゴンの奥にいるのは、十代前半くらいの少女であった。我先にといった様子で次々と硬貨を差し出し菓子を買い求める客に対して、慣れない手つきで小さな包みを渡しているのが見て取れる。
「あんなに小さい子でもイベントに参加できるのね。保護者もいないみたいだし、もしかしてあの子が店主なのかな。みんな凄い勢いだけど……そんなに美味しいお菓子なのかしら」
「いや、味は普通だったよ」
「……え? ヴィクター、食べたの?」
思わずクラリスが聞くと、コーヒーカップに口をつけたままヴィクターがこくりと頷いた。
「あの後、流れで試食品を貰うことになったんだ。イチゴジャムサンドクッキー。正直、キミも口にすれば期待外れだったと感じるはずだよ」
「そう……なんだ……。じゃあ、あの人達はなんであんなに必死になってるんだろう」
その答えは傍観している彼女らには分からない。
言い方は悪いが、そう聞いた後に見るとあの光景は
特に通りを歩いていた人々が、ふらっと立ち寄っているような雰囲気ではない。あの場に群がる客は皆、最初からあのワゴンを目当てに駆け込んできているのだ。
ここからは確認できないため本当にそうかは分からないが、客達ははたから見てもかなり興奮しているように感じる。
――貰ったそばから人目も気にしないで食べてる人もいるし、小さい子相手に怒鳴り声を上げてる人もいる……ちょっと怖いかも。
助けに入った方がよいのだろうか。そうクラリスが考えているうちに、在庫が無くなったのだろう。
それまでワゴンの周りで団子状態になっていた人々は、突然興味を無くしたかのように次々とその場を離れていってしまった。
「売り切れみたい。すごかったわね……」
「ふん。あんな素人が初めて挑戦して作ったようなクッキーに、なにをそんなに群れる必要があるのかね。あれでは飢えた獣同然じゃないか」
時間にして、五分ともたなかっただろう。
まるでネズミやイナゴに荒らされたような有様のワゴンを前に、ヴィクターは呆れたようにそう呟いた。
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