第1部 第2章『賞味期限切れの魔法は腐った果実の味がした』

そのお菓子には不思議な中毒性があった《1》

 バターの匂い。カラメルの匂い。フルーツの匂い。まるで、この世のスイーツが全て目の前のテーブルに並べられたような、互いを邪魔しないまさに奇跡の香り。

 そんな食欲を刺激する甘美な香りが、町の至る場所から漂っていた。



「すごい……町中から幸せの匂いがする……」



 どこの通りに目をやっても、ワゴンや露店が道行く人へスイーツを売っている。

 レストランやパティスリーが多く並ぶ町、スモーア。『スモーア・スイーツフェア』と書かれた看板が一際混みあう大通りの入口に置かれていたのは、どうやらこの光景のことらしい。

 日付はちょうど一昨日から始まって一週間。本当に良いタイミングで訪れることができたものだ。


 ――五日間もあるなら、頑張れば全店制覇できちゃうかも……


 クラリス・アークライトはあまりにも目移りしてしまう夢のような催しを前に、町を訪れて早々に足を止めてしまった。



「クラリス。急に立ち止まるのはやめたまえ。ただでさえこの人混みなんだ……いてっ。うっかり見失ったらどうする」


「大丈夫よ。ヴィクターはおっきいから、少し離れたくらいならすぐに見つけられるもの。人混みっていっても、ぎゅうぎゅうになるほどでもないし」



 そう甘えた答えを述べるクラリスの目は、既にヴィクターを見てはいない。


  ――キミがスイーツに目を奪われている間に、他の人間がキミにぶつからないようにと身をていして守っているのはワタシなのだが。


 ヴィクターがそう思っている間にも、肩や腕に人の波が容赦なくぶつかっていく。いっそのこと、わざとではないかと思うほどに、それは勢いよく。ああ、ほらまた。



「キミがよくても、ワタシはよくないんだ。はぐれてしまった時のことを考えたことがあるのかね。いいや、ないだろう。この人の波をかき分けながらキミを探そうものなら、先にワタシが人酔いでダウンする方が早い自信があるね」


「それなら手でも繋ぐ? その方がヴィクターも離れる心配がなくて安心でしょ」


「えっ」



 クラリスからの思わぬ提案に、ヴィクターが固まった。手を繋ぐ、というのは、もしやあの手と手を繋げる行為のことをいうのだろうか。

 彼は瞬きも口を閉じるのも忘れてワゴンのマフィンを手に取るクラリスを見ていたが、すぐに顔を赤らめさせてはブンブンと首を横に振った。



「く、クラリス。そういうのはよくない。申し出は本当に嬉しいが、ワタシの心の準備ができていない。まだ早いと思うんだ。それもこんな人目の多い所でなんて、ワタシにはまだっ、ハードルが高くて……」


「そう。じゃあ次はあっちのコーヒーロールを見に行きましょ。前に雑誌で見た名店が来ているみたいなの!」


「うん……」



 クラリスはこんな時のヴィクターの対応を、既に心得ていた。

 少し彼の気持ちを利用したズルいやり方ではあるが、ここは自分を待っているお菓子達のためなのだ。手段は選んでいられない。

 無事にマフィンを購入したクラリスは、数件隣の行列ができている露店へと足を向けた。彼女が言う名店というだけあって、客の中にはたしかに持ち帰り用の箱をいくつも手にした人間を見かける。



「わぁすごい……クリームの中にコーヒーゼリーが入ってる。ヴィクターも、アレなら甘すぎなさそうだし一緒に食べられるんじゃない?」


「ん、んん? あぁ……別にクラリスがくれるものなら甘い物も食べなくはないが。たしかにワタシの好み的には、こっちの方が好きだと言える見た目をしているね。さすがクラリスだ」


「じゃあ決定! 無くなる前に早く並びましょう」



 保冷ケースの中に陳列されているケーキを遠目に見て、クラリスがスキップで最後尾に並ぶ。



「やれやれ。このままでは今夜はお菓子パーティになってしまいそうだね……ん?」



 自身もクラリスを追って最後尾についたヴィクターであったが、そんな彼の耳に怒号が飛んでくるのは同時であった。

 それはヴィクターとクラリスに飛んできたわけではない。

 声の聞こえた方向からして、反対側の通り。どうやら事はそちら側で起こっているようである。



「なに? 喧嘩かしら」


「Hmm……それにしては様子がおかしいね。キミはここに並んでいたまえ。ちょっと覗いてくるよ」


「えっ? あ、こらヴィクター! はぐれるなって言ったのはどこのどいつよ! 野次馬はダメ!」



 後ろでクラリスがなにやら叫んでいるが、気になるものは気になる。あの行列であれば、少し覗いて戻ってくる頃にもまだ並んでいるだろう。

 好奇心に身を任せたヴィクターが反対側の通りに向かうと、全貌はすぐに明らかになった。人だ。一つの小さなワゴンに向けて、アリのごとく人が群がっているのである。



「おい! こっちにも早くくれよ! どれだけ待たせるんだ!」


「私は三袋ちょうだい! ああ、やっぱり五袋! なんならあるだけ頂いてもいいわ!」


「誰だ今押した奴は! 俺の方が先に待ってたんだぞ。順番くらい守って並べってんだよ!」



 どうやら先程の怒号はここから上がっているようで間違いない。

 異様な雰囲気を前に、近くを通る人々も初めは物珍しそうに目を向けてはいたものの、関わり合わない方がいいと判断したのか早足でその場を去っていく。


 ――ここだけ無法地帯のようになっているが、店主はいないのか? このままでは客の間で殴り合いが起きてもおかしくない興奮の仕方だが。


 辺りを見回すと、ヴィクターの疑問はすぐに答えが出た。



「みなさん、落ち着いて! まだまだたくさんありますから、そんなに慌てなくても大丈夫ですよ! もっと欲しい人は、夜になったらこのカードに書かれている場所に来てくれればお売りします! お友達や家族にもたくさん広めてくださいね!」



 客の中に埋もれて見えなかったが、隙間から少女と思しき声が群衆を制しようと叫んでいる。

 だがそれも効果は薄いのか、怒号はやむこともなく、喧騒はワゴンの上が空になるまで続いていた。


 それから人だかりが無くなるのに、そこまでの時間はかからなかった。

 思った通り、客を捌いていたのは年端もいかない茶髪の少女で、売り物が無くなってもなおやって来る客には、頭を下げながらなにかを話している。

 ヴィクターがその様子を不思議そうに見ていると、視線に気づいたのだろう。少女はにこりと笑顔を見せた。



「まぁ、綺麗なお兄さん。こんにちは。えっと……初めて来てくれたお客さんですよね。ごめんなさい。今日はもう全部売り切れちゃったんです……」


「かまわないよ。ただ見ていただけだからね。それにしても、すごい人だかりだったが……ここは何を売っている店なのかね」


「イチゴジャムサンドクッキーです! 最近売りはじめたばかりなんですけど、一度食べてくれたお客さんがまたたくさん来てくれて……あっ、そうだ!」



 そう言うと少女はなにかを思い出したのか、ワゴンの横に積まれた木箱の中をゴソゴソ漁りはじめた。

 そして取り出した保存容器の蓋を開けると、中身が見えるようにヴィクターへと差し出す。



「これ、試食用に持ってきていたんです。さっきは出す暇が無かったから余っちゃって……よかったら食べてくれませんか?」



 容器の中には、彼女の言っていたイチゴジャムを挟んだクッキーが並んでいた。

 ヴィクターはそれを一目見て「いや……」と断りを入れるべく口を開いたが、少しの逡巡しゅんじゅん。あまりにも少女が期待に満ちた目をしているのを見て、結局、一枚だけ貰うことにした。


 ――先程このクッキー目当てに群がっていた客達……少し様子がおかしかったように見えたが、一見変なものは入っていなさそうだね。……。クラリスに隠れて食べるのは気が引けるのだが……


 ヴィクターがクッキーを観察している様子すら、少女はじっと見つめていた。今すぐにでも食べた感想が欲しいのだろう。

 折れるのはヴィクターの方が早かった。



「せっかくだ。今ここでいただくよ」


「ありがとうございます! ……どうですか?」


「……」

 


 しっとりとしたクッキーはほのかな甘みが感じられる程度のちょうどいい甘さで、一口で食べられるサイズ感は女性や子どもにも人気が出る大きさだろう。

 間に挟まっているイチゴジャムは香りが良く、味も――


 ――いや……普通、だな。


 良くも悪くも、普通の味だった。

 あれだけの人がこのクッキーを求めていたのだ。てっきり、それは美味しいクッキーなのだろうという期待もしていたのだが……どうやら見当違いだったらしい。これならば、市販のものを買った方が安くつくくらいである。



「あぁ……とても美味しいクッキーだね。皆があんなにも欲しがるわけだ」



 正直な感想を述べることも考えたが、相手は子供だ。きっとクラリスならこう答えただろう。



「ほんとう? よかった、今日のは自信があったんです! 明日はもっとたくさんご用意できると思うので、また来てくださいね!」



 少女はそれは嬉しそうにヴィクターへ笑顔を向けると、小さな体で一生懸命にワゴンを引いて帰っていった。


 ――明日、か。レディには悪いが、わざわざクラリスを連れてくるほどのものではないだろう。


 あんな菓子一つで、早くも胸焼けを起こしている。

 ヴィクターは遠くで手を振る少女に軽く片手を上げて挨拶すると、クラリスの待つ反対側の通りへと戻っていった。

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