嗚呼、なんて素晴らしき誉れ日和《2》

《翌日――ロブソン家・二階》


 その日朝一番に顔を合わせたヴィクターの顔は、それは酷いものであった。



「……おはよう、クラリス」


「おはよう……ヴィクター、大丈夫? だいぶ顔色が悪いみたいだけれど……」


「ああ……これでも、キミの顔を見たおかげで少しマシになった方だ」



 朝とはいっても時刻は昼前。いつもより遅い時間にクラリスの部屋をノックしたヴィクターが、眉をひそめる。日課のクラリスへの賛辞にもキレがない――というよりも、いつにも増して内容がない。

 彼はフラフラと覚束ない足取りでクラリスが泊まる部屋に入ってくると、遠慮もなくソファに腰掛けては背もたれに大きく体を預けた。



「二日酔い?」


「うん……そもそも、ワタシは最初に飲まないと断ったのだよ……それなのに人のグラスが空いたのを見ては次から次へと……おかげでデザートを食べ損ねた」


「ヴィクター、ベンさんにもニコラスさんにも気に入られてたもんねぇ。もう少し寝てる?」


「いや、いい。それよりもこの後をどうするか考えよう。今お茶の準備をする」



 ヴィクターが指を鳴らすと、テーブルの上にはティーセットが現れた。

 ひとりでに動くポットが二つのカップへと紅茶を注いでいく。

 促されたクラリスが席に着くと、彼女の手元にもカップとソーサーは中身を零さないようにとゆっくりやって来た。こちらも心なしか、いつもより元気がない。



「ありがとう。うん……美味しい。私、これけっこう好きかも」



 カップにクラリスが口をつける。今日は柑橘系のフレーバーのようだ。


 ――底に沈んでるのはオレンジピールかな。


 なぜ柑橘類の皮は美味しいのだろうか。こうしてアクセントにするもよし、スライスして甘酸っぱくするもよし。

 クラリスは朝食のパンに塗るジャムはマーマレード派だが、ヴィクターはたしかバターだけを塗って食べるのが好きだったはずだ。



「クラリスの口に合って良かったよ。フレーバーに迷った時はこれにするとしよう」



 ヴィクターはそう言って、早くも二杯目を口にした。

 いつもならもう少し味わって飲むところだが、このペースの早さには空中で待機していたポットもさすがに驚いているように見える。

 そうしているうちに、早速二度目のおかわりが来たことに焦ったのか、ポットは移動の際、ヴィクターの手にしていたカップにぶつかっては派手な音を立てて、フラフラと空中をよろめいてしまった。



「こら、急がなくてもいいよ。割れたらどうするのかね。……まぁいいや。クラリス、おかわりならいくらでもあるから。飲みたくなったらそこにカップを出してくれればいい」


「分かった、ありがとう。それで……この後のことを考えたいって言ってたけれど、それって次の行き先のこと?」


「ああ。いつも特に決めてはいないが、ニコラスくんの話じゃあ隣町までは距離があると言っていただろう。せっかく恩を売ったんだ。楽して連れて行ってもらおうかと思ってね。キミにとって、少し耳寄りな話を聞いたところだったし」


「耳寄り?」



 そんな話がヴィクターから出るのは珍しいことだった。

 彼女達の旅の目的はサントルヴィル中央大都市へ向かうというただ一点のみで、その道の過程や到達時期などはまったく決めてはいない。よく言えば気ままに、悪く言えばノープラン。行き当たりばったりの旅である。


 果たしてあのヴィクターが言う耳寄りとは、本当にそのままの意味で受け取ってもいいのだろうか。

 クラリスはわずかな不安を感じながらも、彼の次の言葉を待つ。

 結果は――彼女の杞憂であった。



「クラリス。スモーアという町は知っているかね」


「スモーア? 行ったことはないけれど、聞いたことはある……かも」



 薄ら聞いたことある程度だが、クラリスの記憶の片隅にその名前はある。しかもそう遠くはない最近の記憶だ。

 するとヴィクターは指を鳴らして、一枚のチラシを呼び出した。

 パッと見ただけでも分かる。これは――でかでかとフルーツタルトの写真が載せられた、スイーツのチラシだ。



「スモーア・スイーツフェア……どうやら今週開催される町を挙げてのイベントらしい。地元の銘菓はもちろん、各国からも名店が集まるようだけど。キミ、この前ホテルのテレビで特集を見ていただろう」


「ああっ、そうだ! 行きたいと思ってはいたけれど、開催日まで間に合いそうになかったのよね……」



 たしかにヴィクターの言う通り、クラリスがその名前を聞いたのは今から数週間前。ホテルでテレビを眺めていた時のことだ。

 世界で一、二を争うスイーツの祭典。普段は予約がいっぱいで手が出せないようなスイーツや、ここでしか味わうことのできないスイーツなど、甘いものに目がない人間にとってはまさに天国のようなイベントである。

 あの時は羨ましいと何気なく見ていただけだったが、まさかつまらなそうに眺めていただけのヴィクターが覚えていたとは。



「言っただろう。耳寄りな話だと。ここに来る前にロブソン夫人から聞いたのだが、なんでもスモーアは隣町から列車に乗れば、たった数時間で到着できる場所にあるらしい」


「ということは……」


「間に合うよ。イベント」



 ヴィクターがそう言うと、クラリスの瞳がパッと輝いた。



「本当に!?」


「嘘なんてつくはずないだろう。昨日から始まっているみたいだから、明日にったとしても数日間は楽しめるはずだ。誰に頼もうが、今日はどうせベンくん達を病院に連れていくのに忙しいだろうし、暇なことに変わりはないんだ。出発の準備を済ませて、下調べでもしてるといい」


「うん、そうする! まさか私がスモーアのスイーツフェアに参加することができるだなんて……今のうちに情報収集しておかなきゃ。ありがとうヴィクター! こんなに楽しみなのは生まれて初めてかも!」


「ああ……うん。えへへ。キミが喜んでくれてよかった。今回は頑張ったんだから、自分へのご褒美だと思いたまえ。きっとスモーアでは素敵な毎日を過ごせるはずだよ」



 足をパタパタさせて全身で喜びを表すクラリス。

 胸が高鳴る気持ちを隠せない彼女からの感謝の言葉に、ヴィクターは照れ笑いを返した。


 窓から入ったそよ風が、カップに張った水面を撫でていく。

 さわさわと揺れる葉擦れの音に混ざって、歌うような鳥の声が聞こえる。――窓辺には、一羽の小鳥が止まっていた。

 もう、あの不気味な虫の羽音は聞こえない。

 小鳥はヴィクターと目が合うと、愛らしい声でひと鳴き。小さな羽を一生懸命に動かして、村を越えたその向こう――家族の待つ、豊かな森の住処へと帰っていくのであった。






第1部 第1章『チープな英雄劇に立役者は二人いる』――完

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