東奔西走ジオメトリック《2》

 二人の前に現れた魔獣は、まさに昨晩ヴィクターが予想を立てていた姿かたちそのもの。まるで写真から飛び出してきたかのようであった。

 人間とそっくりな筋骨隆々の身体は全身ペンキを塗りたくったかのような芥子色からしいろで、手と足の先だけが黒く染まっている。

 首から上には蜂の頭が乗っていて、ただでさえその顎に噛まれれば致命傷だというのに、手にはヴィクターの身長程もある長さの黒い槍を握っていた。



「ほら見たまえクラリス、ビンゴだ! ワタシの予想通りのやつが出てきた! 背中に羽も生えているし、お尻の針に代わった得物を握っているよ!」


「喜んでる場合じゃないでしょ! とにかく逃げないと……あの魔獣が本当にアナタの予想通りなら、あれだけの大きさでも走ったらとんでもない速さで――」



 その時、クラリスの目が大きく見開かれた。

 風を切る鋭い音。たった今の今まで目の前にいたはずのヴィクターが、突如として姿を消したのだ。

 理由なら分かる。ふわりと風圧で浮き上がる前髪。自分の目と鼻の先を、鋭利な槍の先端が横薙ぎに通り過ぎていくのを、彼女はたしかにその目で見ていた。



「ヴィクター! 嘘でしょ……」



 土の匂いが鼻につく。

 薙いだ槍が通っていった先、木の根元で砂埃が上がっている。きっと彼はあそこまで殴り飛ばされてしまったに違いない。


 ――早く、ヴィクターを助けないと。でも……


 しかしクラリスの前には、あの黄色い魔獣が立ち塞がっている。

 この数十メートルを一瞬で移動してくるくらいだ。自分が走りはじめたその瞬間に、それを上回る速さで殴り殺されたとしてもおかしくはない。


 石でも投げて気を逸らすか? いや、そんなもの手近にあるわけもなければ、引っかかる確証も無い。ならばいっそのこと、殴りかかってみるか? いや、非力な自分では簡単に腕を掴まれて、そのまま小枝を折る感覚でポキリと握り潰されてしまうだろう。


 ――ううん。それでも行かなきゃ。どうせ逃げたって追いつかれるんだ。役立たずでも、足でまといでも……ヴィクターを置いて一人で逃げ出すなんて、私にはできない。


 怖い、逃げたい、死にたくない。嫌な想像が頭の中を駆け巡る中、それでもクラリスは一か八かの賭けにでることにした。

 魔獣の動きに注意して、飛んできた攻撃を避ける。そんなこと、本当にできるとは思っていないが、やらねばここで二人して魔獣の餌だ。



「ッ!」



 意を決して、クラリスが震える足に力を込めて、前に一歩踏み出す。

 しかし魔獣は敏感にもその動きに勘づいたのか、彼女が身を低くして通り過ぎようとする合間に重い槍を振り上げた。刹那――



『Brrrr!』



 まるで人間が巻舌をしたかのような発音は、魔獣の鳴き声のもののようだ。そして同時に聞こえる、なにかがぶつかる鈍い音。

 最初は自分の頭に振り下ろされた槍がぶつかったのかと、クラリスはとっさに丸めた体の中心でそんなことを考えていた。だが、あるはずの痛みも衝撃も、いつまで経っても感じることはない。

 なぜか。その答えは、彼女が見上げた音の出所にハッキリと存在していた。



「挨拶も無しに人のことを殴り飛ばした挙句、クラリスにまで手を出そうとは――あざになったらどう責任を取ってくれるというのかね。この虫ケラがァッ!」



 クラリスと魔獣との間に割って入り、あの巨大な槍を蹴り上げ、退けていたのは他でもないヴィクターであった。

 一時的にでもあの重量感のありそうな塊を足一本でどうにかしたことにも驚きではあるが、なにより攻撃を受けたにも関わらずピンピンとしている彼の姿には、クラリスどころか魔獣すらも驚きを隠すことはできない。

 ヴィクターは引っ込めた右足と入れ替わりにステッキを突き出すと、先端の苺水晶ストロベリークォーツを魔獣の大きな顎へと突きつけた。次の瞬間――



「わぁっ!?」


「――クラリス、少し走るよ! 今の爆発に気がついて、付近にいるアレの仲間が寄ってくるかもしれない!」


「う、うん!」



 煙を伴う爆風と振動が、大きな爆発音と共にこの静まり返った森一帯を酷く揺らした。ヴィクターの放った魔法が、魔獣のゼロ距離で爆発を起こしたのだ。


 突然のことに開いた口が塞がらないクラリスの肩を叩いた彼は、訳も分からないままの彼女の背を押して森の奥に向けて走り出す。

 途中ヴィクターが後ろを振り返れば、煙の晴れた先に横たわる黄色い身体が見えた。どうやらしばらく起き上がる気配はないようだ。

 彼はクラリスにしっかり前を向いて走るように伝えると、わずかに騒がしくなった周囲にも注意を向ける。



「ヴィクター、体は大丈夫なの? さっきの魔獣に殴られたところとか、足とか……」



 走っている最中、そうクラリスが尋ねた。

 ヴィクターは自分の言いつけを守って走る彼女のつむじに目を向けると、わずかに頬を緩める。



「心配してくれるのかね。大丈夫。ぶつかる直前にコレステッキで防いだから、直撃したわけではないよ。足もこうして走れるくらい平気だ。……とはいっても、体の内側にまで響くくらいだったからね。今のところ骨に問題はなさそうだが、まったくあのスピードでパワープレイをされるのは、それこそ骨が折れるような思いをしなくてはならなそうだ」


「そっか……それならよかった。助けてくれてありがとう、ヴィクター」


「……かっこよかった?」


「そりゃあもう。私じゃなかったら惚れてたかも」


「えへへ……ん?」



 褒められたことを素直に喜ぼうとしたヴィクターではあったが、クラリスの言ったことに違和感を覚えて、宙に浮いた思考で彼女の言葉を反芻はんすうする。

 だが、それに気がつくと悲しい気持ちになるような気がして、彼はそれ以上考えるのをすぐにやめた。

 しばらく走り続けた後、ようやく彼らが足を止めたのは村から魔獣に出会った地点――それからさらに倍近い距離を移動した後だった。



「こ、ここまで来ればもう大丈夫よね……」


「ああ。周りに魔獣の気配もしないし、少し休憩しよう。紅茶……は今はやめた方がいいか。常温ですまないがクラリス、これを飲みたまえ」



 そう言ってパチリとヴィクターが指を鳴らす。

 彼の手元に小さな花火を散らして現れたのは、ペットボトルに入ったミネラルウォーターであった。



「ううん、十分だよ。ありがとう」



 クラリスは差し出されたペットボトルを受け取ると、都合よく道端に転がっていた手頃な岩に腰をかける。もちろんいち早く察したヴィクターが、慌ててハンカチを敷いたことは言うまでもない。

 体が水分を欲していたのか、気持ち急いでキャップを開ける。ただの水ではあったが、走った後の水はとても美味しく感じられた。



「ぷは。ちょっとだけ生き返った……これならまた動けそう」


「また飲みたくなったら言うといい。それじゃあ先に進もうか」



 ここは既に魔獣のテリトリー内。ヴィクターの予想が正しければ、巣があればそろそろ見えてくる頃だ。

 半分中身の残ったペットボトルを受け取って、パチリ。

 再び小さな花火を咲かせて、彼の手の中にあったペットボトルは跡形もなく姿を消した。

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