東奔西走ジオメトリック《1》

《翌日――森の入口》


 今朝の食卓に並んだのは、パンと採れたばかりの卵を使った目玉焼き、そして昨夜と同じ山菜の味噌汁のみ。

 これだけといえばこれだけだが、クラリスにとっては十分な朝食であった。

 せっかくお世話になっているのだからと、早起きしてロブソン夫人の手伝いをしようと思っていたのだが……さすがは田舎の朝。クラリスが起きた頃にはほとんど支度は終わってしまっていた。


 ――これだけ良くしてもらったんだから、必ず村の人達を無事に連れて帰らないと。


 そう。今回の目的は魔獣の討伐ではなく、帰らぬ村人達を探し出し、連れて帰ること。

 もちろん全員生きての生還が前提ではあるが、仮に最悪の事態が待っていたとしても――クラリス達にはその目で確認し、伝える義務がある。



「ヴィクター、準備は大丈夫?」


「もちろん。むしろ心の準備が必要なのは、クラリス。キミではないのかね?」


「それは……ま、魔獣くらい見たことあるし、言い出しっぺは私なんだから。今さらビビってなんていられないわ。……ヴィクターは、迷惑じゃなかった?」



 おそるおそる、クラリスがヴィクターを見上げる。

 すると彼はきょとんと目を丸くして、「なにがかね」と聞き返した。



「だって提案したのは私なのに、アナタにほとんど頼る形になっちゃって……嫌だったりしてないかなって……」


「なんだそんなことを気にしていたのか。心配する必要はないよ。嫌とも迷惑とも思っていないし、長い旅の途中だ。たまにはこういうのもいいだろう。そもそもワタシには人助けをするなんて発想すらなかったからね……キミの正義感はワタシには無い美徳だ。そのまま大事にしていたまえ」


「うん……ありがとう、ヴィクター。それじゃあ、いこっか」


「ああ」



 申し訳程度に置かれた三角通行止めの看板を乗り越え、薄暗い森の奥へと歩みを進める。

 まだ昼前だというのに、葉の隙間から差し込む光はどこか頼りがなくて、とてもではないがピクニックなんかには向いていない。

 頻繁に人の出入りがあるというだけあって、歩道の整備は昨日通ってきた林道よりもしっかりしている。

 しかし今はそこを通る人間は他にいなければ、横切るような野生動物すら一匹たりともいやしなかった。



「ここ、私達が昨日通った場所とは横に繋がっているのよね? だいぶ雰囲気が違うし、生き物なんて一匹もいないけれど……これも魔獣の影響だったりするのかな」


「元々を知らないからなんとも言えないが、少なからずその可能性はあるだろうね。魔獣が肉食だった場合、テリトリー外に逃げようとする動物なんていくらでもいるだろうし」


「肉食って……怖いこと言わないでよ……」



 ヴィクターに怖がらせるつもりはなくとも、そんなことを言われて警戒心を抱くなと言われる方が難しい。

 クラリスが不安げに左右に視線を泳がせていると、それに気づいたヴィクターが鼻先で笑った。



「今さらビビっていられないなどと言ったのは、どこの誰だったかね。クラリス。そんなにビクビクせずとも、ワタシがいるんだから安全は保証されたも同然だ。それでも不安なら……コートの端でも掴んでいるかい」


「えっ? うーん、そうしようかな……なんかだんだん薄暗くなってきて、不気味になってきた気がするし……」


「……」



 しばらく歩いている間に、森は鬱蒼と、さらに陰の色を濃くしていた。

 案外あっさりと提案を受け入れられたことに驚いて――いや、珍しくクラリスが甘えてきたことに驚いて、ヴィクターの口の端がピクリと跳ねる。

 てっきり馬鹿にするなとでも言われると思っていたのだが、思いのほか、この場所は一般人にとって精神を消耗させる場所となっていたらしい。


 まっすぐ前とクラリスだけを見て歩いていたヴィクターには分からないかもしれないが、注意深く辺りを見回しながら進んでいたクラリスからしてみれば、草木の密集する木立のその奥は先の見えない闇だ。なにが潜んでいるかも分かりやしない。

 魔獣が飛び出てくるだけならまだしも、突然長い腕が伸びてきて、彼女の細い足を掴んで引っ張ってきたとしてもおかしくはないのだ。


 ――そんなことないとは分かってるんだけど……


 ベクトルは違くとも、先程のヴィクターの肉食発言はクラリスの潜在的恐怖心を煽るには十分すぎるほどに働いていた。



「……いなくなった人達、どこだろう。もっと奥まで行っちゃったのかな」


「村人どころか、魔獣もだ。ここまでなにも無いと、嘘でも吐かれたのではないかと疑ってしまうところだが……ん?」



 ふと、ヴィクターが立ち止まりその場にしゃがみ込んだ。

 クラリスもコートを掴んでいた手を離しては、続くように彼の前に回り込む。



「どうしたの?」


「見て、クラリス。血の跡だ」



 そう言ってヴィクターが指を指したのは、なにかの液体が飛び散った跡であった。

 道の真ん中にあるそれは、乾いて茶色くなってはいるが、彼の言う通り血なのだろう。二人のいる場所から、点々と森の奥まで小さな痕跡を残している。



「もしかして、いなくなった人達の……?」


「うん。ここで魔獣に襲われたのだろう。来た道を戻らなかったのは、きっと背後から襲われて進むしかなかったのだろうね。ここはもう、魔獣のテリトリー内に入ったということだ」


「背後からって……」



 バッとクラリスが振り返って、後ろを確認する。なにもいない。

 本来の目的と矛盾することは分かってはいるが――周りに自分達以外になにもいないことに安心して、彼女は無意識に止めていた息を吐き出した。



「……血があるってことは、襲われた時に怪我をしてる人がいるってことよね。早く助けて治療してもらわないと」


「そうだね。最初のニコラスくんの話と、この血の乾き具合からして数日経過していることは間違いないみたいだし……もしかすると一刻を争う状態の可能性もある。少し先を急ぐとしようか」



 そう言って、ヴィクターが立ち上がった。その時だった。



「……ん?」


「ヴィクター、どうしたの?」


「シッ。聞こえないかね、クラリス。……どこからか、虫の羽音がする」


「羽音?」



 口元に人差し指を寄せて、ヴィクターが周囲を警戒する。

 促されるままにクラリスも耳を澄ますと、微かにも、彼の言う虫の羽音が木立の奥から聞こえてきた。



「たしかに聞こえるけれど……昨日は写真を見た時、アナタあの魔獣は飛ばないって言ってなかった?」


「飛んでいないとは言ったが、飛べないとは言っていない。蜂に近い見た目をしているのならば、羽を持っていたとしても不思議ではないさ」


「それじゃあ、今聞こえてる音っていうのはやっぱり……」



 コソコソと自分達だけに聞こえる声量でクラリスが呟く。

 羽音は確実にこちらへと近づいてきている。二人から見て、向かって左側だ。

 ガサガサと、葉を掻き分ける音。不快に感じるほどの虫の羽音が、それに混ざって距離を詰めてくる。

 迷いがない――きっと居場所がバレているのだ。



「ヴィクター、どこかに隠れないと!」


「分かっている。だがどこに? ここには木しかないのだよ。後ろに隠れたって、キミはともかくワタシはこのコートを着たままではどう頑張ってもはみ出てしまう」


「春先にそんなの着てるからでしょ! それなら脱げばいいじゃ……あれ?」



 そう言っているのもつかの間。ピタリ、とこちらへ迫ってきていた羽音が止んだ。

 諦めたのだろうか。それとも、そもそもクラリス達のことなんて気がついていなくて、たまたま近くを通りかかっただけだったのか。

 どちらにせよ、聞こえないほど遠くに行ったのならば、これ以上ここで無意味な言葉の売り買いなどせずに済む。



「……よかった。てっきりこのまま、人探しをする前に追いかけっこでもしないといけなくなるのかと思ったわ」



 ほっと一息ついて、クラリスが顔を上げた。――同時に、十数メートル先の草むらが揺れる。


 ――あれ? なにか……いる?


 自分もヴィクターも、ここにいる。昨日見かけたような鹿やウサギの類はここにはいない。

 ではなぜ、風も吹いていないのに草木は揺れるのか。



「――ひっ」



 が現れた時、クラリスの喉は思わず引きつった声を発していた。

 それもそうだろう。木の陰からぬるりと現れたのは、ヴィクターの身長すらを遥かに超える、三メートル近くもある巨体だったからだ。

 大きな人間の身体に、の頭が乗った化け物――それが今まさに、二人の前に姿を現したのだ。

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