第1部 第1章『チープな英雄劇に立役者は二人いる』

深緑に誘う羽音は悲鳴か宴か《1》

 森林浴には、癒し効果やストレス軽減の効果がある、なんていう話を聞いたことがある。偉い学者先生が言っていたのだから、きっとそうなのだろう。

 清々しい空気に、木々の間から射し込む木漏れ日。時たま見かける鹿やらウサギやら、名前も分からない未知の生物やら。

 それらはまさに、この森の中における癒しの象徴そのもの。心が洗われるという体験であることに違いはない。


 ――とはいっても、さすがにどれだけ歩いても森しか無ければストレスも溜まるわよ……。今日中に泊まれるところが見つかればいいんだけど。


 クラリス・アークライトは疲れきった表情のまま、心の中でそう文句を述べた。

 それもそうだろう。なにせ彼女はどこを見回しても木、木、木。こんな変わり映えのしない景色の中をもう何時間も歩いているのだ。単純に飽きたし疲れた。



「ねぇヴィクター。前から思ってたんだけど……アナタの魔法でこう、近くの町までパパッと移動とかはできないものなの? この辺り、電波も通ってないからスマホの位置検索もできないし……」


「Um……できなくはないかもしれないが、空間を操るような魔法に関してはあいにく得意分野ではなくてね。物を出し入れするくらいならいいが、瞬間移動みたいなのは……あまりオススメはしたくないな。クラリスがどうしてもというならば、挑戦してみてもいいが……」


「いいが?」



 クラリスがわずかに期待を含んだ視線で、隣のヴィクターを見上げる。すると彼は整った顔の眉間にきゅっと皺を寄せた。



「失敗すれば、全身がバラバラになる可能性がある」


「……やっぱり頑張って歩きましょ」



 希望が湧き上がるのも一瞬。崩れ去るのもまた一瞬であった。

 さすがに体がバラバラになることを代償にしてまで楽をしようとは思わない。

 だが、同時にこの退屈な状況を打破できる策を失ったということも事実。どれだけ足が棒になろうとも、クラリスは歩き続けることを選ぶしかなくなってしまったのである。



「あーあ。一週間前まではリゾート気分だったのに、まさかこんな森の中をウロウロすることになるだなんて……。ここで野宿だけは絶対に嫌」


「クラリスが望むなら、ベッドくらい出せるよ?」


「そういう問題じゃないの。別に寝床の問題……もあるけれど。単純にこんな場所で寝泊まりなんてしたら、虫とか獣とか出そうで安心できないでしょ」



 むしろ虫や獣ならまだ良い。厄介なのは魔獣が出た時だ。

 魔獣の中には人間に友好的なものや、愛玩動物ペットとして飼えるようなものもいるが、全部が全部そうではない。平気で人を食べるものや、一説では大きさが山より大きいものもいると聞く。

 そんなものと一夜を共に過ごすなど、考えただけで身震いしてしまいそうだ。


 ――いざという時はヴィクターが守ってくれるだろうけど……そういうのに会わなくて損することはないもんね。


 危険は少なければ少ないほどいい。例えそれが、隣を歩く男がに自分を助けてくれた腕の立つ魔法使いであったとしても、である。



「Hmm……キミのためならば、ここに雨風をしのぐことのできるログハウスを建てる努力もさえもいとわないのだが……ん?」



 ふと、ヴィクターが前方に目を向けた。クラリスも釣られて目を凝らせば、遠目になにかがこちらへ走ってくるのが見えた。

 犬だ。茶色い毛並みのキツネ顔の犬が、軽快な足取りでこちらへと駆け寄ってきたのだ。

 ヴィクターは彼の足元に擦り寄ってきた犬の額を撫でてやると、一方的になにかを話しかけては「分かった。ごくろうさま」とねぎらいの言葉をかける。

 犬は嬉しそうにパタパタと尻尾を振ると、クラリスの足の間をくるりと一周してから颯爽と木立の間を消えていった。



「あれって、ヴィクターの使い魔ってやつ?」


「うん。少し先まで見に行かせていたんだ。彼女の話では、しばらくしないうちに村があるみたいだね。泊まれそうなところもあるって」


「本当! じゃあ野宿コースからはひとまず逸れたってことでいいのよね?」


「ああ。ワタシも突貫工事で家を建てることにならずに済んでよかったよ」



 言葉だけ聞くと冗談にも思えるが、魔法使いであるこの男ならば本当にやりかねない。

 ヴィクターの言った通り、それから一時間もしないうちに永遠かと思われた森の小道はあっさりと終わりを迎えた。

 久しぶりに浴びる直射日光。太陽は、既に西に傾きつつある。



「あっ。ヴィクター、あれ! 本当に村がある!」


「日が沈む前に着いてよかった。そんなに小さな村でもなさそうだから、数日間は滞在しても大丈夫そうだね」



 ポツポツと見えるようになった屋根の煙突からは、煙が上がっているものもある。夕食の支度をしている家庭も多い時間なのだろう。


 ――泊まれるところで、ついでにご飯も食べられればいいんだけど……


 食事処があるのならば、それでもいい。食べることが好きなクラリスにとっては、旅の醍醐味はその町や村で食べるご飯にあるとすら思えるほどだ。

 なにより、ここまで歩き詰めでクラリスの腹はもうペコペコだった。



「おや……なにやら人が集まっているようだが」



 ヴィクターがそれを発見したのは、村の入口に差し掛かった頃であった。

 彼の言うように、複数の人間が集まりなにかを話し合っている。表情から察するに、楽しげな話をしているわけではないのは確かだ。



「なんだろう。事件でもあったのかな」


「だとしても、我々には関係のない話だ。クラリスが気にすることはないよ」


「うーん、それはそうだけれど……」



 ヴィクターの意見はもっともだが、これから滞在しようとしている場所で事件が起きている可能性があるともなれば、気にしないという方が難しいだろう。

 するとクラリスの思いが伝わったかのように、集まっていた中の一人が二人に気がつき振り返った。壮年の男だ。手には農具を持っているようで、畑でひと仕事してきた後だということがよく分かる。

 男は近くの別の人間になにかを聞くと、クラリス達に向けて声をかけてきた。



「こんにちは。もしかして、サントルヴィル中央大都市からの応援の方々……でしょうか?」


サントルヴィル中央大都市? いえ、私達は旅の途中でたまたま寄っただけで……あの、なにかあったんですか?」



 その集まりが楽しいものではないということは、集まっていた人々の顔を見ればすぐに分かった。

 クラリスが尋ねると、男は少し残念そうに肩を落とした後に、わずかな希望にでも縋るような声で口を開いた。



「実は……森に、魔獣が住み着くようになってしまったんです」

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