第6話 ドアを開けて、愛しい人
《翌日――ホテル・クラリスの宿泊部屋》
朝。体を包み込むのは一級品の軽くて柔らかな羽毛布団。ほどよく自分の体温でぬるくなった至福の空間からは、一歩たりとも出る気が起きやしない。
――もう十分……いや、五分だけ……
カーテンの隙間から漏れる日差しに目を覚ましたクラリスは、眩しい光を遮るようにもう一度ベッドの中で丸くなった。
起きる時間なのはよく理解している。しているのだが……そう上手くはできないからこそ、起床とは長年人類を悩ませる課題であり続けているのだ。
――そういえば……今日はヴィクターが起こしに来るって言ってたな……。多分朝食には間に合うように来るって言ってたと思うんだけど、時間的にはそろそろ……
そう思い返して、ハッとクラリスが目を開く。
慌てて枕元で充電していたスマホの液晶に目をやれば、時間は既に八時過ぎ。完全な朝。ということは、間もなくヴィクターがやって来るということだ。
服装はパジャマのまま。すっぴん。身支度ゼロ。髪も寝癖だらけだが、そんなことはどうでもいい。問題は――
「あっ」
ピンポン。クラリスが起きがけの頭で簡単な連想ゲームをしているわずかな間に、部屋のチャイムが鳴った。彼女が目覚めた時点で、タイムリミットは既に目の前に迫っていたのだ。
もう一度、チャイムが鳴る。そして次に聞こえたのは、彼女が想像していた通りの
「クーラーリースー! 迎えに来たよ! 起きているかね!」
間髪入れずに何度もノックされるドア。クラリスは慌てて布団をひっぺがすと、スリッパを履くことすら忘れてバタバタと声のする方へと走っていった。
どうやらこのドアは鍵の性質上、内側からはすぐに開けることができるらしい。
なかば体当たりする形でクラリスがドアを開けると、ヴィクターは少し驚いた表情をしたものの、またすぐににっこりと笑顔で彼女を出迎えた。その見た目は彼女と正反対にきっちりと整ったものである。
「おはよう、ワタシの愛しいクラリス。起きたてかな。可愛らしい寝癖だね」
「おはよう……じゃなくて。起こしに来るならチャイムだけ鳴らして待っててちょうだい。そんなに大声を出したら他に泊まってる人に迷惑でしょ」
「Hmm……というのは、以前ワタシが行儀よく、二時間もの間廊下でキミの起床を待っていたという話を棚に上げて、の発言かね。嗚呼、あの時は本当に寒かった……何回チャイムを押してもキミは起きてくる気配なし。部屋に戻ることも考えたが、そもそもあの時起こしてくれと言ったのはキミだ。ワタシが部屋に戻ったとして、今度はなぜ起こしてくれなかったのかと問い詰めただろう。本当に……
当時のことを思い出したように、ヴィクターが身震いする。よくも朝一番からつらつらと人の同情を誘う言葉が出てくるものである。
「そ、それはそれ。これはこれ、でしょ。せめてノックまでに留めてちょうだい。普通は朝からあんな大声で呼ばないものなの」
「なるほど。クラリスはこのワタシに普通を求める、と。Um……まぁキミがそう言うのならば、次回からは考えるよ」
おそらく納得はしていないのだろうが、いかにも納得したという表情でヴィクターは頷いた。考える、という言葉に不安な要素が残っている。
すると、やはりあの大声は誰かの耳に届いていたのだろうか。二人のすぐ近くで、エレベーターが到着音と共にゆっくりと開いた。
乗っていたのはパツパツのスーツに、ホテルの従業員の名札を着けた小太りの中年男性だ。身なりからして上の役職の人間なのだろう。
はじめこそクラリスは注意をされると思って身構えていたのだが――そんな彼女の予想とは裏腹に、男はまるで十年来に会った親友と再会したかのように晴れやかな表情で二人へと近づいてきた。
「ヴィクターさん! お部屋を尋ねたのに不在でしたので、探したんですよ!」
「あ、あぁ……支配人殿か」
ギクリと体を強ばらせてヴィクターが振り返る。すぐに取り繕ったが、一瞬彼の表情が固まったのをクラリスは見逃していなかった。
たまにしか見ないから分かる。あの顔はなにか隠し事がバレそうになった時。いつもは余裕を崩さないはずの彼が、珍しく焦った時の顔である。
「今朝方、自警団から連絡がありましてね。いやぁ、昨日話を聞いた時は半信半疑でしたが、まさか本当にあのクレイグ・ラスキンを捕まえるとは! あの男、人が変わったように今までの罪を全部白状しまして。ウチの従業員にも奴の仲間がいたということで、私も先程まで聴取を受けていたところなんですよ。従業員一同、貴方様には感謝してもしきれません!」
支配人の男は豪快な笑い声を上げては、気前よくヴィクターの肩を三回叩いた。
ヴィクターはといえば、引き気味に「それはよかったね……」と言いながら叩かれた肩をさすっている。この男、パッションのゴリ押しには弱いのである。
するとそんな彼の背後で、小さくオートロックの音が鳴った。ヴィクターの背中に冷や汗が流れる。
「クレイグのせいで客足も遠のいていましたが、おかげさまでまた忙しくなりそうです。昨日の約束通り、滞在期間中の宿泊料はいただきませんから。どうぞ心ゆくまでサービスを楽しんでいってください! それでは!」
「あぁ。ありがとう……」
慌ただしく支配人がエレベーターに乗って去っていく。
パネルに表示された数字が二十を下回るまでヴィクターは静かにその数字を見送っていた。そして――支配人が完全に離れたと分かるやいなや、彼は今度こそ隠しもしない焦りの表情でクラリスへと振り返った。
その結果は……なんということだろうか、彼の予想通り。ドアは、閉まっていた。
「クラリス。……クラリス。ワタシが早速キミとの約束を破って危険を冒したことは謝ろう。だが、考えてもみてくれ。今回のこれはもしや、キミの言う危険なことに入らないのではないかと。このワタシがたかが盗っ人ごときに遅れをとるはずは万が一にも無いだろう? 逆に言えば、それは危険を冒していない……すなわち、約束を破っていないということになるんだ。ほら、おかげでワタシ達はこんな豪華なホテルに無料で宿泊することもできたんだし、あー……だから、その……頼むから機嫌を直してくれないかね?」
中からの返事は無い。もちろんドアノブに手をかけたところで、既にロックされたドアがビクともいうことはなかった。
――どうしようどうしよう。まさか支配人殿がここまで来るとは想定外だった。おそらく懸賞金で釣るのは逆効果だ。ならばいっそ、昨日の強盗団を撃退した華々しいエピソードでも語ってやるべきか……いやいやそれこそ火に油を注ぐだけだ。レストランの予約の時間もあるし、ワタシはどうすれば……
ヴィクターはウロウロとドアの前を行ったり来たりしながら必死に言い訳を考えていたが、良い答えはどれだけ時間をかけても出てくる気配がない。
もしもこのまま彼女の機嫌が直らなければ、旅の続きはおろか二人の将来にさえ支障が出るかもしれないのだ。会話の選択を誤るわけにはいかない。
考え込むこと数分。やがて――彼はチャイムを押すと、中のクラリスに聞こえるだけの音量で控えめにドアをノックした。
そして言い訳を諦めて、当初の目的を伝えるためにこう口にしたのだ。
「約束を破ってごめんなさい、クラリス。この通りワタシも反省するから……一緒に朝ご飯、食べに行こう?」
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