第5話 最悪の魔法使い『禍犬』と呼ばれた男

 大罪人ヴィクター・ヴァルプルギス。ここにいたのが普通の人間だったのならば、そんな言われように怒るか困惑するかの反応は見せたのだろう。だが――ここにいる男はきっと、普通ではなかった。

 ヴィクターはイーリイの言葉を肯定することもなければ、真っ向から否定することもしない。彼はただ淡々とその汚名を聞き、受け入れ、その上でまるで他人事のように感心した態度を示しただけだったのだ。



「ほう。ヴァルプルギスの夜を知っているだなんて、イーリイくんは本当に長生きしている魔法使いみたいだね。聞いた話によれば、現在あの事件は教育上天災による影響だと語り継がれていると聞いているが……ははっ。いかにも、魔法局が失態を隠すためにでっち上げた理由らしい」


「その魔法局からどうやって脱獄したという。あの事件の後、ヴィクター・ヴァルプルギスは特別牢に投獄されたと聞いていたが」


「脱獄? ……さぁ。ワタシには覚えのない話だね」



 鼻で笑って一蹴いっしゅうするヴィクターに、イーリイが不審げに眉をひそめる。

 彼にしてみれば、ヴィクターは四百年前――いや、それよりもずっと昔から。あの時代どこに行っても、凶悪な魔法使いを取り締まる世界の重要機関『魔法局』によって指名手配されていた魔法使いに他ならない。

 ましてや当時に生きていた者なら知らない者はいない、と言い切れるほどの悪事を重ねていた人物である。見間違えるはずもないだろう。

 しかし当の本人が、その事実に対して覚えがないと口にするのだ。



「……覚えがない? 馬鹿を言うな。しらばっくれるにしても、もっとマシな理由は思いつかなかったのか」


「ワタシは大真面目さ。ヴィクター・ヴァルプルギスは既にこの世に存在しない。ここにいるのはヴァルプルギスという忌み名を捨てたヴィクター……まぁ、正式にはそのうちアークライトの姓を名乗る予定だが。つまりワタシは彼とは別人。赤の他人というわけだから、イーリイくんの言うしらばっくれる態度には該当しない、というわけさ」


「そんな暴論、通用するわけが……! ああいや、もういい。身勝手に大陸を沈めるような狂人とは話すだけ時間の無駄だ。とにかく俺は降りるからな、クレイグ。コイツを相手にするなんて契約外にも程がある!」



 そう言い捨てて去ろうとするイーリイの腕を、クレイグが慌てて掴んだ。

 いっそ哀れなほど話に置いていかれている男は、軽くパニック状態であった。それもそうだろう。訳も分からないままに次々と仲間が逃げ出してしまった上に、頼みの綱であったイーリイですらも彼を見捨てようとしているのだ。無理もない。



「俺を見捨てるってのかイーリイ先生! いつもみたいに魔法でどうにかしてくれるんじゃなかったのかよ!」


「状況が変わった。お前も命が惜しいなら、今のうちに命乞いを済ませておくことだな」


「そんな――ッ!?」



 クレイグが言葉を発そうとした、まさにその瞬間。イーリイの目の前で、奇怪な赤黒い光が弾けた。それと同時に受け身を取る暇もなく、白目を剥いたクレイグは前のめりに砂浜へと倒れ込む。


 なにが起きたのか?


 彼と入れ替わりに現れたのは、それは美しくも愛らしい苺水晶ストロベリークォーツ。しかしその宝飾にも似たヴィクターの紅梅色こうばいいろの瞳は、なにも語らなくなった男をじっと見下ろしていた。



「心配しなくていい。ただ気絶しているだけだ。支配人殿との約束もあるし、彼は生かしておかないといけないからね……。ひとまず、この数分間の記憶だけを消させてもらったよ」



 そう言うとヴィクターは、ゆっくりと視線をイーリイへと向ける。



「しかしイーリイくん。キミは話が別だ。ワタシの過去を知っている人間は、もっと手厚く排除しなければならない。そう……できるだけ波風を立てず、穏便にね」


「ッ、……そこまでして魔法局へ情報が洩れるのを恐れているのか! 遅かれ早かれ、お前がここにいたことは必ずバレることだぞ!」


「魔法局? ふん。アレが再びワタシを捕らえようと躍起になろうが関係ない。ワタシも魔法局には用があるからね。いずれサントルヴィル中央大都市に着いたあかつきには、四百年分の借りを返しに行こうと思っていたんだ」



 忌々しげにヴィクターが言い捨てると、苺水晶ストロベリークォーツはその内部で怪しげな光を孕みはじめた。

 ゆらり、ゆらり、くらり。わずかに漏れ出す魔力の断片だけでもよく分かる。この男に――イーリイは、魔法で勝つことはできない。そのことに気がついた彼は、すぐに行動に出た。そう、前線からの逃走である。


 走り出したイーリイが腕を振り上げると、彼とヴィクターの間には湿気を含んだ砂の壁が立ち上がった。よく見れば、ヴィクターの身長の倍以上もあるその壁には腕があり、足があり、頭がある。砂の巨人だ。

 突然現れたそれに目を丸くすると同時に、ヴィクターは足元に違和感を覚えた。砂浜が、どんどん彼の足を飲み込みはじめているのだ。



「ふぅん。砂を操る魔法使いか……。動けないのは厄介だな」



 そう呟くヴィクターの頭上で、砂の巨人は丸太のように太い右腕を高々と振り上げる。

 ああ。あんな手に潰されれば、人体なんて簡単にペシャンコになってしまうだろう。そんな安易な感想が脳裏をよぎる中、自分に向けて振り下ろされた巨人の腕をヴィクターは静かに見上げて――



「そこをどきたまえ、デカブツ。そんな所で動かれたら、コートのポケットに砂が入るだろう?」



 ヴィクターが軽快に指を鳴らす。すると次の瞬間――前触れもなく、砂の巨人の右腕が弾け飛んだ。不意に起きた爆発が誘爆を繰り返し、瞬く間に巨人の右半身を消し去ったのだ。

 すかさずパチリ。もう一度スナップ音が響くと共に、どこからともなく聞こえたが不気味に砂浜を覆い――彼からの命令を待ち続けていた、色の無い獣達が動き出した。


 月下に照らされた先に、影がある。砂浜にひとつ、ふたつ、無数の影が存在している。獣達の荒い息づかいがヴィクターを通り過ぎ、崩れる巨人の足元を抜けて、背を向け走る獲物の元へ。

 情けない悲鳴が聞こえても、容赦をすることはない。獲物に追いついた群れの一匹が、剥き出しの牙でイーリイの足へと噛み付いた。堪らず転倒してしまった彼は、次から次へとやって来るその透明なナニカ達に踏まれ、噛まれて爪を立てられる。



「この……ッ! 卑怯者め。使い魔を隠していたか!」


「別に隠してなんていないさ。この子達は常人には視認できない、偵察や護衛をこなせる優秀な忠犬達でね。ワタシが呼べば、こうして一箇所に集めて命令を下すことができるんだ。実にお利口だろう?」



 砂が入ってすっかり重くなった靴をヴィクターが引っ張り上げる。その頃には、イーリイは野犬の群れにでも襲われたかのように悲惨な有様となっていた。



「……イーリイくん。このまま勘違いされたままは気分が悪いから、ひとつだけ訂正しておこう。ワタシが過去を隠す理由に魔法局なんて関係ない。ワタシはただ、自分の過去が露見することでクラリスに……愛する女性に嫌われたくない。離れてほしくない。それだけなんだ」


「なに? まさかそんなくだらない理由で、お前は人の命を奪おうとして――むぐッ」



 まるで誰かに口を塞がれてしまったかのように、イーリイが言葉に詰まる。ヴィクターが近づくにつれて、その顔はどんどんと赤くなっているようだった。

 


「あんな過去が知られては好感度が下がるからね。彼女と結ばれるためなら、なんだってするさ。……さて、キミの処遇についてだが。クラリスの言いつけを守って、今回は殺さないことにしてあげよう。ほら、退きたまえペロ。キミがそこに乗っていては彼が窒息してしまうだろう。あっちでお兄ちゃん達と遊んできなさい」



 ヴィクターがイーリイの顔に乗っている透明な獣をつまみ上げる。

 ペロと呼ばれた使い魔は一際甲高い「きゃん!」という鳴き声を上げて砂浜に降り立つと、小さな足跡をヴィクターの周りへと残しながら柔らかな砂の上を駆け回りはじめた。

 その様子を見てヴィクターは呆れ混じりの息を吐いたものの、すぐに気を取り直してステッキをイーリイの頭へと押し付ける。目の前に凶器を差し出された男から悲鳴が漏れたのは、言うまでもない。



「まったく。よわい五百の魔法使いというから、少しは期待したというのに。ただ臆病でたまたま長生きしていただけの雑魚だったなんて」


「や、やめてくれ……殺さないでくれ……」


「だから殺さないと言っているだろう。どうしてそう話を聞かないのかね」


「だって、『禍犬まがいぬ』は傍若無人ぼうじゃくぶじんで乱暴者で嘘つきで、平気で人の頭を潰したりして喜ぶような奴だって!」


「……はぁ。いったい何百年前の黒歴史の話をしているのかね。そんなことではしゃぐほどワタシも若くないよ。さっきのアレはだから、人減らしのために脅そうと協力させただけで……頭を飛ばすという発案をしたのはアレだ。別にワタシが好きでやったわけじゃないからね」



 そうヴィクターが言う背後で、例の頭を弾き飛ばされた死体――否、現在は大量のへと変貌していたソレがもぞもぞと動きだした。

 魔力で造られた魔法使いの分身ダミー――イーリイがそう理解した矢先、塊の中から飛び出してきたのは一羽のカラスであった。

 カラスは艶やかな黒い瞳でなにかを探しているかと思えば、ヴィクターを視界に入れた途端にくるくるとひと鳴き。そして子供の身長程もある両翼を扇いでは、こう怒鳴りをあげたのだ。



『ギャハハハハ! なンだヴィクター、もう一人っちまってるのカ!?』


「……」


『無視すンなっテ! 殺るなラ殺るッテ言ってくれヨ。見逃しちまっタじゃねェカ。どうダ? せっかくオレも一芝居してやったンダ。どうセなラ、これカラ街中でもっと派手にやっチまおうぜべぁッ!?』



 軽快に聞き難いノイズ音を喚き散らしていたカラスが、再び無様に倒れる。

 ペロと呼ばれていた使い魔らしき鳴き声がたのしげにキャンキャンと吠え散らかしていることから察するに、あの群れの誰かが食らいついたらしい。

 羽根の塊に逆戻りしたソレに向けてヴィクターは舌打ちをしては、無意識なのだろう。苛立ち混じりにイーリイに押し付けたステッキで彼の頭を小刻みに小突いた。



「タイミングよく出てくるんじゃないよ、鳥頭。話がややこしくなる」



 そうヴィクターが言っているそばから、彼らの頭上をどこからかやって来た無数のカラスがギャアギャア鳴き声を上げながら旋回する。

 無惨にやられた仲間の敵討ちかと思えば、そうではない。ただソレらは、愉快そうに笑い声を発しながらヴィクターの次の行動を観察しているだけなのだ。


 しかしそんな鳥達とは反対に、すっかり無視することを決めたヴィクターは気を取り直してステッキに微量の魔力を流し込む。

 その変化にはイーリイも気がついたようで、彼は声にならない悲鳴を上げてはヴィクターの一挙一動に目を凝らしていた。



「途中邪魔が入ったが、ワタシがキミの命を奪わないというのは本当だ。あー……だからほら。イーリイくん。そんなに怯えるな。手元が狂うだろう」


「お、俺にいったいなにを……」


「怖いことはしないよ。排除するとは言ったが、別にキミ自身が死ぬわけじゃあない。ワタシに関しての記憶が曖昧になるだけだからね。なぁに……一瞬、頭が割れるくらいに痛むだけさ」



 ヴィクターがわずかに口角を上げた、次の瞬間。クレイグが倒れた時よりも派手な破裂音と赤い光がイーリイを襲った。

 実際、ヴィクターが言ったように頭は痛かったのか。そもそも本当に彼はイーリイを殺さなかったのか。そんなことはもうイーリイにとってはどうでもいい。


 なぜなら、それらの記憶は既に無かったことにされてしまったのだから。



「クラリスに感謝したまえ、イーリイくん。ワタシを相手にこの場で犬の餌にされなかっただけ……キミは幸運な人間だよ」

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