紳士と乙女と痴れ者達《3》

《夜――ホテル二十階》


 結論から言えば、ホテル備え付けの夜景が見えるレストランでのディナーは美味しかったし、サービスの一環として行ってもらったプロのマッサージも最高だった。

 まだオイルの香りが体に残っているのか、腕を近づけて匂いを嗅げば甘い花の香りに心も癒される。


 ――久しぶりに体は軽いし、肩凝りも治ってスッキリした! さすが町一番の高級ホテル。金額以外はたしかに最高かも。


 上機嫌でホテルの廊下を歩いていたクラリスは、ロビーで預けられたカードキーで宿泊部屋のドアを解錠すると、部屋の奥へ向かって声をかけた。



「ただいまヴィクター。荷物整理任せちゃってごめんね? ここまで長旅だったし、アナタも疲れたでしょ。……ヴィクター?」



 期待した返事はない。

 不思議に思ったクラリスが足早に部屋の中を覗きに行くと、ようやく彼女が戻ってきたことに気がついたらしい。それまで椅子に腰かけたままうつらうつらとしていたヴィクターが顔を上げた。



「……ん。おかえりクラリス。えーっと……クローゼットはそこに出しておいたから、衣服の整理は自分でやってくれ。それといつもの顔に塗るやつはテーブルの上に置いておいたから。明日は朝食の時間には起こしに来るよ」



 彼はそう言ってわふっと犬のような大あくびをすると、立ち上がったついでに腕を高く上げて伸びをした。まだ覚醒しきっていないのか、足元が覚束ない。


 ヴィクターにと言われた先には、クラリスの背丈程もある見慣れたクローゼットと、化粧水やら乳液やらといったスキンケアセットが用意されていた。

 もちろんこれらもヴィクターの魔法によって収納されていたものであり、ソファに積まれた紙袋には、まだ日の目を見ていない最近購入したばかりの衣服達がぎゅうぎゅうに入っている。



「ありがとう。ヴィクターはもう寝るの?」


「半端に寝たおかげで目が冴えてしまってね。少し外の空気を吸ってから寝るとするよ。……あぁ、飲み物は冷蔵庫に冷やしておいたから。他に欲しいものがあれば言ってくれ。それじゃあ、おやすみ。クラリス」


「うん。おやすみ」



 ヴィクターが部屋を出ると、オートロックのドアは背後でガチャリと音を立てて施錠をした。

 本音を言うならばもう少し話していたかったが、そういつまでも彼女の時間を奪うわけにもいかない。


 近くのエレベーターに乗り込んだヴィクターは、迷わず一階のボタンを押した。フロントに軽く挨拶をし、ロビーから外へ出れば、少し冷えた春風が彼の頬を優しく撫でる。


 ――まだ冬も明けたばかりで、夜はさすがに冷えるか。クラリスに厚手のパジャマを出してあげればよかったな。


 そんなことを考えながら、ヴィクターが足早にホテルを後にする。

 実際、これが彼にとっての早足なのかといえば、そんなことはない。普段と比較して――クラリスの歩幅に合わせて歩いている時に比べればたしかに早いのだが、そんな普段との差を気にする人間は今は誰もいやしない。



「……やはり着いてきたか。思ったより少ないね。……ワタシも舐められたものだ」



 しばらくして、真っ直ぐに前を向いたまま、ヴィクターが呟く。

 彼が向かっていたのは、人気のない海であった。砂浜に降り立てば、ざりざりとブーツ越しに砂を踏む感触が心地いい。

 海は、昼間の宝石にも勝る賑やかな煌めきをすっかりと隠し、月明かりに照らされて、おぞましくも黒く美しい水面みなもを静かに揺らしていた。


 ――街の中心からも大分離れた。この辺りならば人に見られる心配もないだろう。


 ヴィクターは足を止めると、くるりと後ろを振り返った。

 すると、合わせるかのように彼の後ろを――ホテルを出た時からひっそりと着いてきていた男達も同じように足を止めた。

 ヴィクターに逃げる気がないことを分かっていたのだろう。満足に身を隠す場所が無いこの砂浜に着いた時から、堂々と男達は彼の後ろを着いてきていた。



「よぉ兄ちゃん。こんな夜中にコソコソ出てくるなんて、逢瀬にしても場所は選んだ方がいいんじゃねぇか?」


「……キミがクレイグくんか。主に商人や旅行客……とはいっても、界隈のいわゆる金持ちと称されるような人間ばかりを襲う賊とは聞いているが。なるほど。群れるくらいに雇う金は儲かっているみたいだ」



 ヴィクターに話しかけてきた先頭の男は、昼間に手配書で見た顔と一致していた。クレイグ・ラスキン――間違いない。

 クレイグの後ろにいる男達は、ざっと数えて十人程度。

 あらかじめ打ち合わせしていたのだろう。それぞれが大振りなナイフを手に持ち、ジリジリとヴィクターの周りを囲んでは、逃げ場を無くすように退路を塞いでいく。



「なんだ。俺のことを知っているのか? それなのに、こぉんな助けも呼べない場所まで来るなんて……ハハッ。自分が殺されるとも思っていないとは、やっぱり良いトコロ育ちの人間は危機感がなってねぇなぁ。海に流されて、死体すら見つけてもらえないかもしれないぜ?」


「それならば問題ない。人に見られる方が、かえって都合が悪いからね。今日のワタシは、愛するクラリスから危険ごとには首を突っ込まないようにと言いつけられているんだ。キミに出くわしたことがバレてしまえば、多分……とても怒られる」



 そう言うと、ヴィクターはどこからともなくステッキを取り出し、棒先を砂浜へと落とした。



「まぁ、それも彼女にバレないよう手を回せばいいだけの話なのだがね」



 その瞬間――という声か雑音かも区別のつかない間抜けな音が、男達の中から聞こえた。それはヴィクターの背後、つまりクレイグから見て正面から上がった音だ。


 最初に声を発したのは、そのの出処のすぐ横にいた男である。彼はなにが起きたのか分からないといった表情で「オマエ、なにしてるんだ」と音の主に向かってそう声をかける。

 その答えを知っているのは、当の声をかけられた本人と、クレイグのみ。

 クレイグはたしかに見ていた。今――ヴィクターの背後にいた男の頭が、突然見るも無惨に弾け飛んだのを。



「こ、こいつ……魔法使いか!」



 クレイグが上擦った声でそう叫んだ。

 すると、状況を理解した男達の中からも次々に悲鳴が上がり、そのほとんどがヴィクターから距離を取るように後ずさる。

 その場を動かなかった者は、勇敢なわけでもなくただ足が動かなかっただけなのだろう。動けない男のうちの一人は、へたりこんだまま失禁していた。



「なんだ。殺しもしていると聞いていたから、こちらも強気に出てみたのだが……思っていたよりも意気地がないね。たかが一人潰れただけだろう」



 そう語るヴィクターが軽くステッキを持ち上げると、今度こそ男達は距離を取るでもなく、文字通りその場を逃げ出した。

 唯一逃げなかったのはクレイグだけだったが、常人……一応、彼も殺人を犯した指名手配犯ではあるのだが。ただの人間である彼も、ヴィクターと転がる死体を交互に見ては情けなく顔を青ざめさせている。



「どうした? 皆逃げてしまったが、ワタシを殺して金品をせしめるのではなかったのかね。もしも恥ずかしいことに助けを……あぁ、キミがターゲットの情報を横流ししてもらっていた、あのホテルの従業員に紛れたお仲間にでも連絡を取り、クラリスを人質にでもしようと思うのならば無駄だ」


「な、なんでそのことを知って……」


「ワタシにだって情報網はある。支配人殿には昼のうちによく話をしておいたからね。キミを自警団に突き出すという条件で、我々は数日間無料で良い部屋をサービスしてもらっているんだ。まぁ、ホテル内に隠れているキミのお仲間を黙すためにも、クラリスには演技してもらう羽目になったが……事情を知らないとはいえ、あんなにガチガチに歩かれては彼女は役者には向いていない。次からは無しにしよう」



 ヴィクターが一歩前へ足を踏み出す毎に、クレイグが後ろへ一歩下がる。

 これでは距離は一生縮まらない。クレイグ自身取り乱してはいるが、大人しく捕まる気はないのだろう。


 ――悪人というのは、いつの世の中もしぶといものだね。勝てないと分かっているのに、こうも諦めが悪いとは。


 思わずヴィクターの眉間にも皺が寄る。

 やがてクレイグはキョロキョロと視線を動かした後、なにかを発見したのかニヤリと怪しい笑みを浮かべ――ようやく足を止めた。



「へへ……そう余裕こいてられるのも今のうちだ。こっちだって、もしもの事態に備えて、魔法使いのを用心棒に雇っているんだ。それも五百年も生きている魔法使いの先生をだぞ!」


「ほう。それだけ生きているとなれば、それは偉大な人物なのだろうが……それを雇ったと。たかが盗人ぬすっと風情が」


「うるせぇ! ――イーリイ先生! 仲間がやられたんだ。いつまでも見てねぇで、早く俺を助けてくれよ! なんのために高ぇ金払って雇ってると思ってるんだ!」



 そうクレイグが叫んですぐ、それまで彼らの会話を清聴していた波がざわつきはじめる。

 強い風がヴィクターとクレイグの間を駆け抜けていき、一瞬の砂煙。

 やがて煙が晴れた中に立っていたのは、帽子を目深に被った、全身を黒い装いに身を包んだ背の低い男であった。



「クレイグ。俺を呼ぶ時は、本当に緊急事態の時だけだと聞いていたはずだが」


「今がその緊急事態だ! アイツら、せっかく金を分けてやってるってのに、一人やられたくらいで全員俺を見捨てて逃げやがったんだぞ!」


「愁傷なことだな。まぁ、先に金は貰っていることだ。契約に則って仕事はこなすとしよう。それで、俺が始末すればいいのはコイツ……ん?」



 イーリイはヴィクターを一瞥するやいなや、被っていた帽子をわずかに上げて、まじまじと彼の顔を見つめた。

 そんなに見つめられては愛想は良くしなければならない。ヴィクターはにこりと笑って、正面からその視線を受け止めた。



「待て。お前のその顔、見覚えがあるぞ。どこで見たのか……たしか、過去に何度も飽きるほどに――」



 その顔色が変わるのに、さほど時間はかからなかった。

 急にイーリイはクレイグに振り返ると、先程までの余裕を全て失った鬼のような形相で彼へと詰め寄る。

 突然のことに状況が理解できていないクレイグは、思わず両手を前にしてイーリイを制した。



「ど、どうしたっていうんだイーリイ先生!」


「どうしたもこうしたもないだろう! お前、とんでもないことに巻き込んでくれたな……アイツが誰だか知らないで相手していたっていうのか!」


「へ、へぇ……?」



 今度はヴィクターとイーリイとを交互に見ては、クレイグが素っ頓狂な声を上げる。

 おかしい。その視線の先で笑うヴィクターの目は、よく見ればまったく笑ってはいなかった。



「知らないなら教えてやる。あの男はその昔、通称『禍犬まがいぬ』と呼ばれた魔法使い、ヴィクター・ヴァルプルギス」



 そう言ってイーリイがヴィクターに視線を向ける。そしてその存在を確かめるように、大声でこう言い放ったのだ。



「四百年前に大陸ひとつを沈めるまでに至った大量殺人事件、ヴァルプルギスの夜を引き起こした首謀者――!」

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