紳士と乙女と痴れ者達《1》

《現在――とある港町・海の見えるカフェテラス》


 あれから半年。そう。あの住み慣れた田舎町を離れて、気ままな二人旅へと出てから既に半年が経った。


 ――なんだか遠い昔のことみたい。本当に私達、冒険の旅に出ちゃったんだなぁ。

 

 そんなことを考えていたクラリスの手の中で、カラン、とグラスの中で溶けた氷が小さな音を立てた。

 底に残っていたオレンジジュースの赤橙色はいつの間にか半透明になるほど薄まっていて、溶けだした冷水と混じりあってから、ある程度の時間が経過していることを意識させる。


 ――それにしても……遅いな。


 スマホの充電はゼロ。暇つぶしなんて発想はとっくのとうに諦めた。

 風にはほんのりと潮の香りが混ざっていて、前髪ががなびくくらいに少し強い。

 海の見えるカフェテラスなのだからと、多少の風の強さは覚悟してはいたのだが……それでもここで人を待ち続けているクラリスにとって、この風は多少なりともストレスを与え続けていた。



「ヴィクターったら……今日の宿を探してくるって言ったきり、どこまで行ったのかしら。あまり長居しているとお店にも迷惑がかかっちゃうんだけど」



 ソワソワと辺りを気にしはじめたクラリスは、無意識にほとんど味の薄まったオレンジジュースに口をつける。

 カラン。次にグラスの中の氷が音を立てた時、視界の端に動きがあった。人が近づいてきたのだ。

 しかしそれは、彼女が待っていた人物ではなかった。



「可愛い金髪のおねーさんっ。もしかして一人?」


「海綺麗だよねぇ。あっ、よく見たらお姉さんの目と同じ色じゃん。ってことは、ここで会ったのも運命? 良かったら一緒に泳ぎに行かない?」



 この町の人間なのだろう。日に焼けた二人の男が、クラリスの目の前までやってきてはそう声をかけた。

 知っている。これは……典型的なナンパと言われるものだ。


 ――うわぁ。さっきからチラチラ見てくるとは思っていたけど……久しぶりに大きい町に来たから、つい浮かれて油断してた。さすがリゾート地。けっこうグイグイくるのね。


 記憶では、この男達はクラリスよりも後に席に着いたはずである。

 もしかすると最初からこう声をかける目的で近づいてきたのかもしれない。そう思うのは、さすがに少し自惚うぬぼれているだろうか。



「あー……えっと、結構です。今人を待っているので」


「なになに、お友達? もしかして彼氏とか? それなら後で俺達も謝ってあげるからさ。こんな所で暇してたらもったいないよ!」



 当たり障りのないように断りを入れたというのに、どうしてこうも諦めが悪いのか。

 昼食時も過ぎていて、テラスには他に助けてくれるような客はいない。クラリスの味方は、今やこのほとんど飲み終わってしまった、言い訳にも満たない水のようなオレンジジュースしかいないのだ。

 

 ほとほとに困った。これはよくない――いや、このナンパされている状況に立たされたクラリスが、ではない。目の前の男達に対して、彼女はそう思っているのだ。


 ――あぁもう、早く諦めてどこかに行ってよ。こういうタイミングに限って間が悪く――



「Hmm……もし。ワタシの目がおかしくなければ……キミ達の前で可哀想に助けを求めんとしているのは、我が愛しのクラリスではないかね?」



 そう、間が悪いのである。



「あぁ? なんだお前……おお」


「でか……」



 落ち着いた男の声に、威嚇するかのごとくナンパ男達が振り返る。

 だが、彼らはそこに立っていた人物を見るやいなや思わず一歩後ずさった。


 それもそうだろう。そこに立っていた紅髪の男は、彼らの身長を頭一つ分近く上回っていた上に、恐ろしく整った顔を静かな怒りの色に染めていたのだ。

 狼狽うろたえるナンパ男達を紅髪の男は目線だけで見下ろすと、左手に掴んでいた豪奢な金色のステッキを力任せに硬い床へと打ちつけた。



「ワタシが何を言いたいのか、いちいち口に出さねば分からないのかね。れ者共が。一刻も早くクラリスとワタシの視界から消えろと言っているんだ。……言っているんだが?」



 そう言って、紅髪の男はもう一度ステッキを強く床へと打ちつけた。

 するとまるで拘束が解けたかのように、二人のナンパ男達は口々に「ひゃい」やら「うぅ」やら声を漏らして、脱兎のごとくテラスから逃げ去っていった。


 ――このお店が先払いで注文できるお店でよかった……


 店員を突き飛ばす勢いで男達が店を出ていくのを見て、クラリスは心の底からそう思った。



「もう、ヴィクター。助けてくれたのは感謝してるけど、もう少し穏便にできないのかしら。ただでさえアナタは目立つんだから、今みたいに悪目立ちするやり方は控えて――わっ!」



 クラリスに呼ばれた紅髪の男――ヴィクターが、季節外れなコートの皺も気にすることなく、勢いのままに椅子へと座る。その衝撃に、とっさに彼女は揺れるテーブルと回るグラスを両手で押さえた。

 揺れの元凶のヴィクターはといえば、無駄に長い脚を上手に組んだかと思えば、ようやく定位置に落ち着いたテーブルに両肘をついてクラリスを見上げた。

 その紅梅こうばい色の瞳は先程までとは打って変わって、キラキラとただ真っ直ぐに彼女のことを見つめている。



「ねぇ、クラリス。どうだった?」


「どうって、なにがよ」


「ちゃあんと約束を守って追い払ったよ。偉い?」



 ヴィクターはこてんと首を傾げてそう問いかけた。

 いくら顔が良くとも、デカい男にこうも可愛こぶられるのはなかなかにくるものがある。もちろん、悪い意味でである。



「はいはい。五十点ってところかしら」


「それは……あまりにも低くないかい。だって、約束通りに殺しもしなかったし、危害も加えなかった」


「そんなの当たり前。さっきは威圧して怖がらせたでしょ」


「……」



 しゅんとした顔をされても、困るのはクラリスの方である。

 今の会話の通り、この男と世間の常識とでは基準が違いすぎるのだ。そんな基準で毎度褒めていたらキリがない。


 ――これでも半年前に比べたら、すぐに手を出さなくなっただけマシだけれど……。この顔であの態度だから、下手すると妙な因縁をつけられて滞在しにくくなっちゃうのよね。かといって……


 クラリスがヴィクターの顔色を窺うと、彼はまだしょぼくれたままであった。

 心なしか、全体的に髪がペシャンとしている気がする。これが犬だったら、先ほどまではちぎれんばかりに振っていた尻尾は今や静かに垂れ下がっていたことだろう。


 ――まぁ、ヴィクターも善意で追い払ってくれたんだし。せっかく新しい町に着いたばかりで、怒られるのも可哀想よね。



「そんなに落ち込まないで。それはそれ、これはこれで感謝してるって言ったじゃない。……ありがとう、ヴィクター。すこーしだけ、かっこよかったわよ」


「……本当に?」


「す、少しよ? 町行く人がアナタの顔を見て賞賛する程度の、全然取るに足らないくらい――」


「HAHA! いいや、いいんだ。いいんだワタシの可愛いクラリス! 嗚呼、このワタシがまさか、キミからの賛辞をうっかり聞き漏らしていただなんて。しかし、いやぁ……うん。今日は良い日だね。そうだ、先日立ち寄った村で珍しい茶葉を買ったんだった。ワタシも歩き回って喉が渇いてしまってね。少しティータイムにしてからここを出るとしようじゃあないか」



 コロッと一転、再び晴れやかな笑顔に戻ったヴィクターがそう言った途端に、彼の背後――ちょうど肩から頭の少し上に向けて、パチパチと音を立てて小さなが打ち上がった。

 この昼間に、拳ほどの大きさをした花火が、である。


 ――失敗した。やっぱり迂闊に褒めるんじゃなかった……


 クラリスが心の中でそう後悔の言葉を述べている間にもポコポコと花火はヴィクターの背後で咲き続け、挙句の果てに彼はステッキの杖先でテーブルを軽く叩くと、どこからともなく陶磁器のティーセットを呼び出した。

 カップとポットはヴィクターの手を借りずともひとりでに空中で紅茶を淹れはじめ、鼻歌交じりにご機嫌な彼の周りをくるくると回り続けている。


 ヴィクターの機嫌が良い時――特にクラリス関連で良いことがあった時、この馬鹿げた体質の花火は彼の意識とは関係なく打ち上げられ、それに連なる一連の行動はいつもクラリスを悩ませる。単純に目立つのだ。

 彼女はチラリと店内の様子を伺ったが、あの騒ぎの後に今更「おやめください、お客様!」と制するような勇敢な店員はいない。

 これはもう、クラリスとしてもどうしようもないことだった。



「……ヴィクター。一杯だけよ。一杯飲んだら出るからね」


「はぁい」



 この腑抜け顔にも慣れたものだ。

 なにせ目の前の使とはもう一年近くになる付き合いなのだ。慣れてしまわなければ、それこそ胃に穴が空いてしまう。


 ――お店、出る時にちゃんと店員さんに謝ろう……


 こうして人に謝るのは、果たして今月で何回目になるだろうか。

 しかしこれは傍から見れば非日常にも見える彼らの、なんら変わりのないいつもの日常に他ならなかった。

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