災禍の魔法使いは恋慕の情には慣れていない

桜庭 暖

プロローグ『ヴィクター・ヴァルプルギスはその昔、有名な魔法使いだった』

男の人生には三度目の転機があった

《半年前の記憶――アークライト家》


「ねぇ。ヴィクターはもしも私がこの町を出て、冒険に出たいって言ったら……どうする?」



 カチャカチャと食器にスプーンがぶつかる音に混ざって、は突然そんな話を切り出した。

 今日の朝食はたっぷりバターを塗ったパンと、甘いコーンスープ。本当はサラダやベーコンなんかを足してもよかったが、あいにくこの家の冷蔵庫にそんなものは入っていない。



「もちろん着いていくさ。キミが嫌だと言うのなら考えるが……むしろ着いてきてほしいからこそ、ワタシにそんな話を振ったのではないのかね。クラリス」



 そう言って――ヴィクターが指を鳴らすと、テーブルの上には小さな花火が咲いた。

 煙が晴れた中心に現れたのは、陶磁器でできたティーセットだ。

 彼らが見ている前で、くるり、くるり。ポットはひとりでに踊り、揺れて、待ち受ける二つのカップへ温かな紅茶を注いでいく。


 この食後のティータイムは、既に彼らの日課となっていた。

 カップはソーサーと共にゆらゆらと空中を揺れて、今度は主人達へと頭を差し出す。

 不安定なそれを受け取る手つきももう慣れたものだ。彼女――クラリス・アークライトは早速一口紅茶を飲むと、ほっと息を吐き出してから話を続けた。



「正解。アナタならそう言ってくれると思ってたの。生まれてこの方、私はここ以外の場所を知らないから……外に出ればもっと色んな人に出会って、見たことない景色を見て、あとは美味しいものもたくさんあるでしょう? 私ね、色んな町に行ってスイーツ巡りとかをしてみたいんだ」


「なに、スイーツ? ははっ、それはキミにお似合いな可愛らしいご希望だね。あー……ただ、クラリス。本当にワタシなんかで良いのかね? ワタシよりも付き合いの長い友人なんてキミの周りにはたくさんいるだろう。それなのに、わざわざワタシなんかを指名せずとも――」



 そこまで口にして、ヴィクターはハッと口を噤んだ。テーブルを挟んだ向こう側で、彼女が怒っていることが伝わってきたからだ。



「さっきは着いていくって言ったでしょ。まさか、この一瞬でもう考えが変わっちゃったわけ?」


「それは……」



 ヴィクターはしばらく目を泳がせては、小刻みに紅茶を飲んで唇を湿らせる。

 そして長い時間ぐるぐると考えを巡らせて、言葉を選んで、とっくに飲み干して空になったカップに口を付けそうになったところで、やっと我に返った。

 

 時計の長い針は先ほど見た時から数分先を刻んでいる。その間もクラリスは、ただ黙って彼の答えを待っていた。



「……変わるはずがない。キミの提案は天にも昇るほど嬉しいし、キミが来いと言うのならば、ワタシはなによりも優先してその期待に応えよう」



 しかし、そう切り出したヴィクターの目は、どこか不安げに揺れていた。

 


「でもね。このワタシが大好きなキミと……しかも二人きりで旅をすることが許されるだなんて、そんな幸せなことがあって本当にいいのかな。夢みたいで、現実味がないというか……なんだか一生分の幸運を使い果たしてしまったみたいで怖くなっちゃって……」


「まったく大袈裟ね……それで結局、ヴィクターは私と行きたいの? それとも行きたくないの? そのたいそうな夢やら幸運やらは置いておいて、素直なアナタ自身の考えを聞かせてちょうだい」



 よほど抽象的で曖昧な彼の態度に辟易へきえきしたのだろう。クラリスは今度はハッキリそう尋ねた。

 ヴィクターはまた、考える。いや、答えは考えるまでもないのだが――それをストレートに口にするのか、またいらぬ御託を並べるのか。きっと彼女は後者を望んではいない。



「……行きたい」


「ならそれでいいじゃない。私はアナタと行きたいし、アナタは私と行きたい。それだけで十分。私がヴィクターを選んだのは運でもなんでもなくて、ただそうしたいと思っただけなんだから。単純で分かりやすい理由でしょ?」



 クラリスはそう言って、この日初めての笑顔を見せた。不思議とその笑顔を見ると、それまで一定のリズムを刻んでいたヴィクターの心臓はきゅんと跳ね上がる。


 陳腐なロマンス映画を見て感動に涙を流す顔も、皿の端へと残した野菜を見つけて怒った顔も、すべて等しく愛おしいが――やはりあの笑顔が一番だ。それなのに、少しの間でも彼女の顔を曇らせてしまっただなんて。これからは考えを改めなければならない。



「うん……キミの言う通りだ。まさかこのワタシが一瞬でもクラリスの提案を断ろうとしただなんて。嗚呼、数分前に戻って自分を引っぱたいてやりたいくらいだよ。……ところでクラリス。冒険もなにも、さすがにずっとあちこち放浪し続けるわけにもいかない。旅をするならば、目的地が必要なのではないかね」



 ヴィクターが再度指を鳴らすと、空になったティーセットは小さな花火の弾ける音と共に姿を消した。



「もちろん。目的地は決めてあるの。目指すのは中央大都市――サントルヴィル。色んな場所を巡った最後には、ずっと憧れていた大都会に行って、新しい生活を始めたいんだ」


「あの世界の中心地に? Hmm……いいね。キミがかねてから都会に憧れを抱いていたことは周知の事実だ。せっかく目指すのならば、それくらい派手な場所にしなければ」


「そうでしょ! ……ということで。ヴィクターの同意も得たことだし、出発は一週間後で決まり。早速今日から荷造りを始めるから、食器を片付けたら買い出しに行きましょ!」


「一週間? それはさすがに急すぎやしないかね。ワタシはこの町に未練なんて無いからいいが……ここで生まれ育ったキミは違う。もっとゆっくり友人との別れを惜しんでからでも……」



 想像よりも早い旅立ちに、ヴィクターはきょとんと目を丸くする。

 しかしそんな彼のことはお見通しといったように、クラリスはニヤリと口角を上げた。



「計画は一ヶ月前から練っていたの。心の準備くらい抜かりはないわ」


「なに。一ヶ月も? クラリス……キミね。こういう大事なことならもっと早くから相談をしてくれないかね」


「ついこの間まで人の家のベッドを占領して、ずーっと目を覚まさなかったのはどこの誰だったかしら。町を救ってくれた? とにかく……もう決定! ほらほら、早く片付けして出かけましょ。こういうのは準備してる時が一番楽しいんだから!」



 テーブルの上に広がった食器を重ねて、クラリスが立ち上がる。

 きっとこうして一緒に出かけることを楽しみにしていたのだろう。席を離れた彼女からは、ようやく話ができたという解放感からか上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。


 ――買い物なんて行かなくても、キミが言ってさえくれれば、なんだってワタシが準備するというのに……なんて。そんなことを今さら言うのは野暮か。


 ヴィクターも彼女にならって近くの皿をまとめると、ようやく重い腰を上げて、ひとかたまりになった食器を手に持った。



「そうだね。もちろん今日のショッピングも……そしてこれから始まる冒険も。せっかく選ばれたんだ。きっとキミを退屈させない毎日にしてみせると、心から誓うよ。ワタシの愛しいクラリス」



 そう言ったヴィクターの肩の上に、不思議かな。ポコンと小さな真昼の花火が咲いた。

 こうしてヴィクター彼女クラリスと二人、再び色のついた世界へと旅に出る。

 今度こそ、この手に入れた小さな幸せを手放さないようにするために。オモチャみたいな愛や希望と、わずかな恐怖心を胸いっぱいに詰め込んで。

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