#3:8発分の殺意
家に戻った頃には夕方になっていた。母の車は駐車場から消えていた。仕事に出たのだ。
父の車は残っている。
トリシティを置いて、家に入る。適当にリビングまで歩を進めると、そこには父がいた。
「…………………………」
「………………ただいま」
取りあえず挨拶はしておいた。返答はない。
父は、ともすればわたしよりも鬱屈としているかもしれない。
このところの不景気による集団リストラに遭って、父は職を失った。何十年と勤めた会社から、突然「いらない」と宣告されたのだ。
たぶん父も、勤勉ではなかったのだろう。会社に重宝されるほどは。ただ、リストラに遭って自業自得と言われるほど怠惰ではなかったはずだ。怠惰だったなら、家族をここまで養ってはこれなかっただろう。
リビングを出て、階段を上る。
本当に、世の中はままならない。真面目に生きてきたのに、そこが自分にとってすべてだと思ってた世界から不要だと宣言され、投げ捨てられる。わたしと父のどちらかひとりがそうであるなら、まだ不幸で済んだ。二人ともそうであるのなら、これは世界の悪しき状態を表している。
わたしたちは、悪くないはずだ。
ともかく、厄介なのは家族の大黒柱たる父が仕事を失ったことだ。それは同時に収入源を絶たれたことを意味する。今は母のパートと、貯金でなんとかなっているが……。一年持つかどうか怪しいところだ。
そういう経済的事情が、家族を荒ませている。父は未だショックから立ち直れず、新しい仕事を探していない。母はそんな父に何か不満を抱えているようだったが、今のところ何も言わず自分の仕事を黙々とこなしている。
二番目の兄の秀秋は、針の筵みたいな家に愛想をつかして一人暮らしを始めた。唯一安定した収入を持ち独り立ちできるあいつは、その経済的権限をフルに使って家族という厄介事から逃げ出した。
一番上の兄の夏生だけが、変わらない。あいつだけはこうなる前から、引きこもりのニートだったから。中東情勢と同じだ。とっくに最悪でそれ以下にならないから、変わらないだけだ。
二階に上って自室の前に立つ。隣の夏生の部屋は、扉が固く閉ざされている。母が扉の前に置いたらしい昼食はラップをかけられたまま放置されている。
自室に入る。四畳半の狭苦しい部屋。小学生の頃から変わらない。勉強机とベッドが部屋の四分の三を占めた空間。小さい頃はここがわたしにとっての一国一城だったが、東京での一人暮らしを終えて帰ってみると、酷く狭いと感じる。
リュックを椅子において、ジャケットを脱ぐ。窓を開けて風を入れた。田舎は夏でも日が傾けば冷たい風が入って涼しい。つい最近まで町にコンビニひとつなかったド田舎だ。高速道路の建設で喧しいが、まだまだ都会には程遠い。
何となく疲れて、ベッドに横たわる。掛布団はなく、タオルケットだけが乱雑に広がっている寝床へ無造作に転がる。
瞼が重い。
どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
真面目に生きてきた。ニートクソ野郎の夏生は知らないが、わたしも父も母も、真面目に生きてきたのだ。勤勉と自称できるほどではないにせよ、怠惰からは程遠い人生を送ってきた。
幸福になれて当然だとは思わない。ただ、不幸になっても仕方ないような生き方はしてこなかった。それなのに、今は不幸のどん底にいる。
本当に、世界はままならない。
目を閉じる。意識がまどろんでいく。
たぶん、夢を見た。
高校生時代の夢だ。
おそらく、わたしにとって一番気楽で幸福だった時期。
親から中学の部活くらいは運動しろと言われて、無理に運動部に入れられたから、中学時代は疲れて辛かった。それに世界が狭くて、溜まった鬱憤の晴らす先がどこにもなかった。
大学時代は自由だったが、すぐそこに迫る労働という義務の重圧に押しつぶされそうで、気持ちが焦った。
それに比べれば、高校生の頃は気楽だった。大学生ほどの自由はなくとも、鬱憤のやり場を失うほど不自由でもなかった。勉強はできたから大学進学の心配はまるでなかった。
クラスメイトにも恵まれたのかもしれない。あまり幸福な交友関係を築けなかったわたしの人生では、珍しいくらい温厚な三年間だったように思う。
気さくながらも最低限の礼儀をわきまえたクラスメイト達。思春期真っただ中の割には、気負うことなく男女関係なく仲が良かった。その空気感というか、雰囲気にわたしは助けられた。
でもなんで、そんな時期の夢を見るのだろう。
気楽だったし幸福だったけど、戻りたいとは思ったことがないのに。あの三年間は、三年間だから特別で、それ以上の意味はないはずなのに。
ああ、そういえば…………。
「国を守る兵士って、憧れるよな」
なんて、誰かが言っていたような……。
誰だったっけ?
社会の授業で、国防軍再編の話が出たときのことだとは覚えている。そういうタイミングでもない限り、わたしたちはそんな政治の小難しい話なんてしなかった。
でも、誰がそんなことを言ったんだろう。
たぶん男子だった気がする。まあ、言いそうなのは男だが……。
わたしはそれに、何て思ったんだろうか。
あんまり、いい感情は抱かなかった気がする。
それも妙な話だ。銃火器でドンパチする映画とか、けっこう好きなつもりだったのに。戦う兵士をかっこよく思ってもおかしくないはずなのに、どうしてかクラスメイトが憧れを話すと、あまりいい気分はしなかった。
どうしてそう思ったのかは分からないし、そんなことを思い出した理由は分からない。
だから、虫が知らせたんだろう。
さながら親しい者が死の間際に枕元に立つように。
わたしは自分の未来のことを、夢に見たんだと思う。
そう思ったのはだいぶ先のことで。
その瞬間は特に何も考えなかった。
大きな音で、目を覚ましたから。
「…………………………っ!」
思わず飛び起きる。いつの間にか辺りはどっぷりと闇に浸かっていた。時間が分からないが、だいぶ眠りこけていたのは事実らしい。
何の音だったのだろうか。眠りは浅い方だから、案外大した音でなくても飛び起きたのかもしれないが……。どうも、つんざくような破裂音だったような気が……。
ぼうっとしていると。
また、音がする。
破裂音。
それが銃声であることには、すぐ思い至る。
実際の音を聞いたことはない。でも人間生きていれば一度くらい、画面の向こうで銃声は聞いたことがある。だから肝心なのは現実で実際に銃声が聞こえたとき、それをきちんと銃声と認識できるかどうか、だ。
正常性バイアス、だったか。
人間はその身に危険が迫っていても、けっこう呑気するものだ。
銃声は全部で三発聞こえた。一階から。ゆっくりと噛みしめるようなリズムで三発。
なぜ一階?
わたしの家に銃はない。拳銃を護身用に持っている家庭も多いが、うちでは銃を持っていなかった。家族の誰もろくに使えないからだ。使えないものを持っていても事故の元にしかならないというのが父の考えだった。
じゃあなんだ?
銃を持った誰かが侵入してきたというのか?
それもそれでおかしい話だ。一般家庭、よりは今のところ貧困にあえいですらいる我が家に強盗?
などと。
つらつら考えていると、ぎしりと、階段を踏みしめる音が聞こえた。
誰かが二階に上がってくる。
わたしは咄嗟に、押し入れを開ける。人ひとりが隠れるのに困らないだけのスペースがそこにはある。とりあえずそこに隠れることにした。
「…………………………」
ただ、直感だ。
虫が知らせたのだ。
どうしてそうすることにしたのか分からない。ただ直感的に、わたしはひと手間を加えた。
押し入れから掛布団を引っ張り出す。タオルケットと枕を使ってふくらみを作り、その上に布団を掛けた。まるで人がそこで寝ているように。
…………何をしているんだわたしは。
頭の片隅でそんな疑問がずっと反芻された。だが、こうしなければならないという義務感のようなものが心臓の奥からこみ上げていた。
すべての作業を終えて、押し入れに隠れる。薄く戸を開いて、部屋の様子が見えるようにした状態で。
足音は近づいてくる。しかし、開かれたのはわたしの部屋ではなく、隣の夏生の部屋だった。音で分かる。
銃声。
今度は手早く、三発。今度は何か、躊躇やためらいといったタガが外れたような拙速さを感じさせる。
そして。
ガチャリと。
わたしの部屋の扉が開かれる。
入ってきたのは、母だった。
母の右手には、拳銃が握られている。
拳銃は夜の闇の中、星明りに照らされてツヤツヤと輝いている。
母が拳銃を持っている。つまり、発砲したのは母だ。
驚くべきことに、と言うべきなのだろう。だけどわたしに驚きはなかった。
恐るべきことに、とも言うべきなのだろう。この場で母が拳銃を持っていて、一階と夏生の部屋でそれぞれ三発発砲した。誰に?
そんなものは分かり切っている。ことここに至って、我が家で何が起きているかは言葉にするまでもないのだ。
それなのに。
恐怖も驚愕もなく、わたしはただ母の行く末を眺めていた。
「う、ううううぅぅぅ」
すすり泣く声。母のものだ。
母は震える両手でのろのろと拳銃を構え、ベッドに向ける。
そしてそのまま。
撃った。
暗い部屋に、火薬の爆ぜる音。それから明滅。
軽い音を立てて、空薬莢が落ちる。勉強机に当たって跳ね返り、キラキラと輝きながら。
掛布団に穴が開く。羽毛が溢れて舞い上がる。
銃声は、三発では収まらない。一体あの拳銃には何発の弾丸が込められているのだろうか。気がかりになるほどの銃声が響いた。
もう全弾撃ち尽くしたんじゃないかと思うほどの弾丸が放たれた。
部屋に銃声の余韻が響く。
その中で。
母は自分のこめかみに銃を押し当てると。
引き金を引いた。
銃声。
そして、崩れ落ちる音。
わたしは………………。
母の死体と、おそらくそうなっているだろう血溜まりで足の踏み場がなくなっている自分の部屋を前にして。
どうやって押し入れから足を汚さずに出られるかしばらく悩んだ。
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