#2:出会い

 就職活動のスケジュールは分かりづらい。毎年いつ始まるのか変わったりする。そういうイメージを就活する前のわたしも持っていたが、いざ自分が就活する側に立つと、ことは複雑でもなかった。どんなに政府が通達を出していつを就活のスタートと定めても、企業の側でそれを無視するからだ。この一点だけを見ても、現在の政府と財界の力関係は明白だろう。

 ともかく、就活は三月に始まり、六月には内定が出る。これが基本のスケジュールだった。そして今は九月。つまりわたしは、基本のスケジュールからとっくに外れてしまっている。

 東京の大学院を出た文系のインテリと言えば聞こえはいいが、インテリなどいらないのが今の企業だ。連中が欲しがっているのは奴隷であり、奴隷に人文科学の知識など無用の長物だ。人文科学は奴隷を否定する知識の総体なのだから。わたしは大学院で学んで得た知識の時点ですでに大きなマイナスを抱えている。

 その上新卒じゃない。新卒、新卒、新卒だ。連中は判を押したように新卒を欲しがる。さながら女性経験のない薄汚い童貞が床上手の処女を希求するみたいに、即戦力の新卒を連中はやたら欲しがる。そんなやつはどこにもいないから、結局ミスマッチに終わる。

「…………新卒か」

 せめてわたしという人材の抱える大きなマイナスの内、新卒ではないという部分だけでもなんとかなったら話は違ったのかもしれない。なんて、言っても詮無いことだ。

「…………くそっ」

 そんなことを考えていると、思い出してしまう。自分がどうしてこんなことになっているのか、その理由を。

 わたしは文系の大学院に進んだ。より専門的な資格を得るため、だったら今こんなに苦労はなかっただろう。わたしが進学したのは、研究者になりたかったからだ。

 研究者。文学の、研究者に。

 今思えば、本当に研究者になりたかったのかはよく分からない。社会に出るのが怖かったというネガティブな理由が進学動機の半分を占めていたのは確かで、その意味ではわたしは真面目ではないし勤勉ではなかったのだ。

 だけど、研究をしたかったという動機がもう半分なのも事実だ。好きな作品について、より深く踏み込んで分析して、理解を深める。そういう知的な所作に憧れがあった。

 しかし、わたしの夢は叶わなかった。

 いや、わたしの努力が不足していて、研究者として学問を修める上で能力不足に陥ったというのであれば、まだいい。それは仕方のないことで、諦めがついた。

 問題は、わたしの努力の質や多寡と一切関係がなかったということ。

「これは研究ではない」

 と、言われたのだ。

 わたしのしていることは、研究ではないと。

 わたしの二年間は、たった一言で片づけられた。

 わたしの研究がどうして研究と呼べないのか、具体的な説明はなかった。今ならはっきり断言できる。たぶん具体的な説明などできなかったのだ。なんとなくテーマが気に入らなかったとか、前例が少なくて評価が下しづらかったとか、そういう理由だ。それを「研究ではない」とまるで客観的な判断を下したふうな言葉で誤魔化して、適当な評価を付けられたのだ。

「もし研究を続けるなら、在野でやったらどうか」

 とも言われた。それはつまり「お前を大学に置くつもりはない」ということだ。

なるほど在野で研究して成果を上げる人間も中にはいる。だが大学という研究機関に庇護されるのと、ひとりのアマチュアとして研究を続けるのでは結果を出す難易度は天地の差がある。だからこれは、実質的に「お前は研究をするな」と断言されたに等しいのだ。

 それだけでも最悪だというのに、それ以上にさらに悪いことがあった。

「これは研究ではない」

 そう指導教授がわたしに三下り半を叩きつけたのは、一月のことだった。

 修士二年の一月。

 就職活動は、さっきも言ったように三月から始まる。大学生なら三年目の終わり、大学院生でも一年目の終わりから、ということだ。つまり修士二年の一月というのは、ひとつ下の後輩連中が就活の心配をする時期であって、わたしが就職をどうしようか悩んでいていい時期じゃない。

 放り出されたのだ。

 進学する気で準備していたのに、唐突に大学から放り出された。就活すらする暇もない。突然大学に居場所はないと突きつけられ、就職の当てもなかった。東京を引き上げて、戻るしかなかった。

 だから今年の就活が、わたしにとっては初めての就活だった。

 しかし、当然上手くいかない。

 就職に有利な資格などひとつも持っていない。傍から見れば唐突に研究者としての道をドロップアウトしたようにしか見えず印象が悪い。

 大学生の内に就活をしていれば、大学がいろいろと世話を焼いてくれた。就活に必要なノウハウをセミナーで教授してくれもしただろう。わたしにはそういうバックアップもないのだ。就活サイトに登録して、ハローワークにも行って、書き方もよく分からない履歴書やエントリーシートと独学でにらめっこをするしかない。

 もとより人材としてのマイナスが大きいのに、まともに就活の方法も分からないのでは、結果など出るはずもなく。

 新卒は内定をもらう六月になっても、そもそも面接すらろくに受けられず、それから三か月が経過し夏も終わろうとしている。

 もはや就活は、一種のアリバイ作りになっていた。真面目に働く気があるということを周囲にアピールするための示威行為になっている。成果が出るはずもないものに、いつまでも真面目に取り組めるほど人間は頑丈じゃない。今の気分は、穴を掘らされ、そこをまた埋め戻させられているような感じだ。もはや自分が何のために行動しているのかも怪しくなってくる。

 そもそも。

 そもそもだ。

 気力が充実しない。

 だって、わたしは放り出された後なのだ。

 自分の努力に関係なく、最悪の結果がもたらされることがあると知ってしまった後なのだ。

 いったい誰が、癇癪を起して盤面をひっくり返すようなやつとオセロゲームを真剣にやる?

 いつ、わたしの努力とは一切無縁のところで状況がひっくり返るかも分からないのに、どうして目の前のことに真剣になれる?

 そんな状況で、なおアリバイ作り程度にしかなっていないとはいえ動けているわたしは上等な部類の人間のはずだ。大抵の人間なら、ここですべてを諦めて布団にでも潜り込む。そうしたいのをぐっと堪えて、動けているだけ上等だ。

 そのはずだ。

 そう思わないとやっていけない。



 今日も今日とて、徒労だった。

 ハローワークに条件の合う求人はなかった。

 なんて言うと、仕事なんて選ばなければいくらでもあると知ったふうな口を利くやつがいるが、それはまさしく知ったふうなのであって何かを知っているわけじゃない。

 簡単な話、わたしが仕事を選ばなくても仕事は人を選ぶのだ。それが分からないやつに、何も言われたくはない。

 母には昼は戻らないと言ったが、ハローワークでの案件が一日中かかるわけじゃない。午前中には終わって、あとは暇になる。ただ家にいるのが嫌で、適当を言って帰るのを遅らせただけだ。

 とはいえ仕事もしておらず学生時代のバイト代貯金を切り崩すしか能のないわたしの時間つぶしは、図書館か本屋と相場が決まっている。今日は図書館だった。

 コンビニで適当に昼食を買って食べると、トリシティを走らせて市内で一番大きな図書館に行く。館内は冷房が効いていて、それでいて今日は人が少なくて静謐な雰囲気が保たれていた。

 適当に雑誌を見繕うつもりだったが、興味のある雑誌はどれも月刊誌で、以前に目を通したものばかりだった。仕方なく、その辺から新聞を取ってソファに腰掛ける。

 くつろげるソファの閲覧席はいつもなら人で埋まっているところだったが、今日はやけに空いている。わたしの正面にひとり、男がいるくらいだ。スーツを着た若い男。何が面白いのか軽薄そうな笑みを浮かべ、日経新聞に目を通している。

 営業まわりのサラリーマンが時間つぶしでもしているのか? 普通に見ればそんな光景だが、どうもそんな様子ではない。男の雰囲気は、一般的なサラリーマンから離れていた。スーツの仕立てが幾分上等そうなのもそうだが、どこか自由闊達とした気配がある。時間やしがらみ、得意先の客に縛られるようなタイプの人間には見えない。時間的な拘束が少ないフリーランスか、そうでなければ昼からサボりを決め込める若い上級役員と言ったところか。

 いずれにせよ、わたしの人生にはまったく関与しなさそうな人種なのは確かだ。

 手元の新聞に目を落とす。就職活動中の身としては、世事にまったく疎いのでは話にならない。ネットニュースだけじゃなく、新聞などからもきちんと日本や世界の情勢を把握しなければならない。

 新聞の一面は民間軍事会社、PMCの設立数が増加の一途をたどっているということを報道している。政府の統計が新しく出たらしい。ああ、だから今朝のニュースで取り上げていたのかと思い至る。記事は続いて、PMCへの人員供与手段として、PMCへ入社する奨学金貸与者への返済免除案が議会に提出されたことを報じている。他には野党がPMCに対し国防軍や警察特殊部隊と同等の銃火器使用が認められるのはおかしいとして、銃刀法の改正を訴えたが退けられたという話が出ている。

 めくって、さらに中を読み進める。海外情勢は相変わらず。北朝鮮では三代目の将軍が亡くなってそろそろ一年が経つ。韓国では安定的だった左派政権が倒れ、軍隊と強い結びつきを持つ極右政権が樹立してこれも一年くらいか。朝鮮半島の情勢はまるで二人三脚でもしているみたいに呼吸を合わせて悪化している。一年前は朝鮮戦争秒読みなんてTwitterで書いたら「軍靴の足音を幻聴で聞く馬鹿」なんて罵られたものだが、ところが今はどうだ。秒読みどころか北緯三八度線じゃ小競り合いまで起きている。二年前、将軍と大統領が会談をして握手していたのが遠い昔みたいだ。

 きな臭いのは半島だけじゃない。中国じゃ強権化が進んで少数民族の弾圧がいよいよ激しさを増す。内陸部と沿岸部の貧富の差も拡大の一途。いつどこで内戦の火蓋が切って落とされるやら分かったものじゃない。今や世界一位の経済大国が爆ぜたら、世界中の企業が泡食って倒れるだろう。そうしたら就活が上手くいかないのも世界情勢のせいにできるのに。

 内戦のリスクを抱えているのはロシアも同じ。いや、ロシアの場合軍事政権化が強化され、排外主義と時代錯誤の帝国主義の復活が原因か。内戦というより、旧ソ連国への圧力が増している。新ソ連でも樹立して冷戦の続きでもしようとしているのだろうか。旧ソ連だった国はロシアの属国だと言わんばかりの態度が日増しに強くなる。

 アメリカではいよいよメキシコとの国境に壁を作るらしい。まさかあの大統領が二期目を務めることになるとは思わなかった。ついにKKKが大手を振って黒人だけじゃなくアジア人や移民も銃で撃ち殺し始めた。Twitterに公式アカウントができたときは時期外れのエイプリルフールかと思った。銃規制を求める世論は強くなっていて、ガス抜きするみたいに多少は規制が強化されたらしいが、どうもそれも白人に対しては骨抜きらしいというのが実にアメリカっぽい感じだ。白人が黒人を撃ち殺すのはお咎めなし。先代の大統領が黒人だったのが奇跡だな。

 中東情勢は変化なし。まあ、変化なしと言っても内紛内戦また銃撃戦に自爆テロの日常だ。泥水が泥水のままなのを指して「昨日と変わらず、より汚くはなっていない」と言い張るようなものだ。世界がこうなる前から中東は石油とレアメタル、それから宗教的諍いの本拠地だ。

 変化があるとすれば、欧州が中東情勢のあおりをいよいよ受け始めたということだろうか。いまやヨーロッパは地下テロ組織の温床だ。散々世界のリーダー面で中東からアフリカまで引っ掻き回したツケだと言えれば気は楽だったが、そのツケを払うのは無辜の市民だ。殺すのも殺されるのも、本来なら何の罪もないはずの人間なのだ。

 だが、こうした状況も日本は笑いが止まらないだろう。なにせ自衛隊を国防軍に再編したことの正当性が対外的に出てきたのだから。戦争ごっこをしたくて仕方のない無能なボンボンの総理が就任してもう十年以上経つ。国防軍の軍備もいよいよ整って、後は混乱の世界情勢に繰り出してアメリカと一緒に世界の警察を気取るだけとなっている。

 駄目だな。世界は今日もどこか壊れている。こんな情勢でどうしてわたしの就活が上手くいくのか。不安定な情勢は不景気を呼び込み、不景気は狭量な排外主義を呼び込み、それがまた情勢を不安定にしていく。負のスパイラルだ。世界はみんなで手を取り合って仲良く一緒に地獄へ落ちている。それにわたしも巻き込まれている。

 さらに新聞をめくる。世界情勢が沈んでいるものだから、国内の情勢もよろしくはない。物騒なニュースばかりが並んでいる。

 国内の銃刀法が改正されて今年で十年になる。そのこともあって、新聞では盛んに銃刀法についての特集が組まれている。不景気にあえぐ日本に新たな経済資本としての銃火器市場の導入。それは表向きの理由だが、新聞が政府から降りてきた表向きの理由を並べるだけの広告塔になってからもう長いこと経つ。大学のレポートに書いたら落第点レベルの内容が羅列されている。

 日本の銃火器市場開拓の最大の理由。それはアメリカの銃規制強化から企業が逃れるため。アメリカで銃が売るのが難しくなった分、新しい市場として日本を求めた。海外ニュースの日本語訳版を読むだけの知能がある人間なら誰でも知っていることだ。

 属国。アメリカ五十一番目の州という蔑称は伊達ではない。国防軍の再編にしてもそう。アメリカから要請があったからだ。そしてPMCも。最終的には海外展開を目標とする国防軍が、国内のことに手を取られないための手段としてアメリカから要請され整備されたに過ぎない。国防軍の癖に国内での厄介事を民間企業に押し付けるというのは矛盾した話だが、連中にとって国防とはそういうものだ。

 まあ、銃市場の開拓で僅かに日本が潤ったのは事実だが……。しかし一番潤ったのはアメリカの銃企業、ついで海外のその他銃企業なのは言うまでもない。日本はそもそも民間用に銃なんて作ってないし卸すノウハウもないのだから、手をこまねいているうちに海外企業に市場を食い荒らされるのは必然の流れだ。日本は銃砲店が各地にできたり、海外銃企業の日本支社ができたりした分、ちょっとだけ就職先が増えたくらいのものだ。

 アメリカのブッシュマスターにコルト社。ドイツのH&K、ベルギーのハースタル、ロシアのイズマッシュだったかカラシニコフだったか。どこも企業としては一流で、わたしのような落ちこぼれが就職するようなところじゃない。銃砲店は個人経営が多いし、そっちもわたしには関係ない。

 新聞には次いで、銃規制緩和によってこの十年で起きた様々なことが羅列されてある。国防軍の再編と警察の特殊部隊設立。それからPMCの設立で銃を原因とする犯罪は抑止できると総理は当時熱弁を振るっていたが、そんなのは軍事力強化の理由づけでしかない。マッチポンプだ。そもそも、そんな簡単に銃犯罪を取り締まれるのなら、アメリカはこんなに苦労していない。

 案の定、銃を用いた犯罪は増加した。銃による傷害と殺人。武装強盗。自殺、心中。銃乱射事件。銃があれば人はその暴力性をより簡単に発揮できる。なにが「和の心を持つ日本人なら銃による犯罪は起こさない」だくだらない。

 最初の数年は、銃乱射事件が起きると世間も大騒ぎしたものだ。「戦後最大級の犯罪」なんて見出しがよく飛び交った。でもそれも落ち着いて、「ああまたか」という感じになる。銃乱射は日常の一部になった。銃で人を殺すやつ、銃で人に殺されるやつ。全部日常になった。

 ページをめくる。ここ最近の銃関連のニュースとして挙げられているのは、ピストルキャリバーカービン、PCCと通称される新しいタイプの銃火器についてだった。フルオート機能こそなく、拳銃より大型ではあるが、取り回しやすく当てやすい小銃火器。装弾数や銃身の長さからすれば、通常は販売が許されない銃だ。しかし最近ではこの銃がよく売れる。普通の拳銃を改造することでPCCに換装できるというコンバージョンキットが個人の銃砲店で製造され販売されるケースが多いという。PCCへ換装された状態のものなら何とか取り締まれるが、換装されない限りそれ単体では合法の拳銃とただのパーツの塊である。今のところ法的に取り締まることができないのだという。脱法的に強力な銃火器の所有を個人に許してしまっている。

 PCCそれ自体は、大規模な企業でも製造、販売しているきちんとした銃だ。拳銃を換装することで手軽に強化できるので警察機関やPMCで人気が高い。わたしは銃を握ったことがないから分からないが、より大振りになりストックが付き、銃身が伸びることで拳銃より当てやすくなるという。特にPMCでは訓練がまだ不十分な新入社員に与える装備としての人気が高い。

 面倒なのは、一部の週刊誌などがすっぱ抜いたことによるとPCCコンバージョンキットを大企業のセールスマンが成績目当てで民間人に売っているらしいということだ。今のところ合法ではないが違法でもないから、セールスマンが成績を上げるために欲しがっている人間に売る事例が後を絶たないとか。中にはそれがエスカレートし、軍用銃を民間に卸すあこぎなセールスマンもいるという。

 野党はPCC全般の取り締まり強化を求めている。しかし今やPCCは銃砲店の売れ筋商品。企業からの圧力が強く、与党は規制に乗り気ではない。個人レベルでも3Dプリンターで作れる時代だからな。規制もどこまで有効か少し怪しいところがある。

 地方欄に目を向ける。茶白山高原のハイキングコースの整備が終わって大勢の登山客が訪れているとか、そういう平和なニュースが軒を連ねている。呑気なものだが、事件がないのはいいことだ。そんなのほほんとした記事の中に、ひとつ、顔写真付きのインタビューが掲載されていた。

 地元岡崎市を拠点として、愛知県警から業務委託を受けるPMC葵警備について。

 小規模ながら精鋭を集め県警からの信頼も厚いPMCの社長。

「………………あ」

 載っている写真は、さっきわたしの正面にいた男だ。徳川蒼太郎二十五歳。わたしと同い年でPMCの社長か……。

 ちらりと正面のソファを見る。もう既に、あの男はいない。

 しかし……二十代半ばで社長か。新興IT企業ならともかく、PMCで社長というのはたぶんすごいんだろう。漠然と、そんなことを思う。

 インタビューの中身は読まなかった。別に、興味はない。

 右腕に巻いた腕時計を確認する。もう十分に時間は潰した。そろそろ戻ってもいい頃合いだ。

 新聞を畳んだところで、正面のソファに何かが落ちているのに気づいた。さっきまで徳川の社長さんが座っていたところだ。新聞を脇に挟んで近づくと、それは革製の長財布だと分かった。たぶんスーツの尻ポケットにでも入れておいて、立ち上がった拍子に滑り落ちたのだろう。

 拾い上げる。図書館のカウンターにでも届けておけばいいだろうか。

「拾ってくれたのかい。ありがとう」

 そこで、声を掛けられる。振り返ると、さっきの男がわたしの横に立っていた。人懐っこくすら感じさせる、軽薄そうな笑みを浮かべて。

「…………はい」

「助かるよ。いや図書館を出る前に気づけてよかった」

 男は随分お喋りらしく、余計なことをぺらぺら話す。口から生まれたようなやつだ。

「そうだ、お近づきの印に自己紹介でもしようか。僕はPMC葵警備社長の徳川蒼太郎だ」

「……知ってます」

 わたしは新聞を掲げた。

「そういえば地方欄の取材に答えたっけな。掲載されたのは今日だったか。これは恥ずかしいところを見せてしまった。インタビューなんて柄じゃないんだが、どうしてもと言われてね」

 そんなことまでは聞いていない。

「ところで君は?」

「ただの就職活動中の人間です。名乗るほどの者では」

「ははあ。就職活動中かい? この時期に? それは大変だ」

「お気遣いどうも」

 さすがに企業の人間なら、九月の時点で就職先が決まっていない人間の苦境は分かるか。

「ふむ………………」

「なにか?」

 社長さんはこっちをじっと見た。何か、値踏みをするようなあまり快くない視線だ。

「いやね、うちは零細企業で、とても人手が足りないんだよ。どこのPMCも状況は同じだと言えなくもないが……。しかし片手で数えられる程度の人数で仕事を回している会社はうち以外にいないだろう」

「はあ…………」

「そこでどうだろう。君、うちに入らないかい?」

「……………………はあ?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。

 うちって、PMCだろう?

 何を言っているんだこいつは。

「コンビニのバイトじゃないんですよ? なんでわたしがPMCで仕事できると思ったんですか?」

「僕の人を見る目は確かでね。君は見たところ銃火器を扱った経験があるように見えないが、才能がありそうだと思ったんだ」

 買いかぶりもここまでくると笑えてくるな。

「それにコンビニのバイトも立派な仕事だ。簡単ではない」

「いえそういう話ではなく……」

 PMC。プライベートミリタリーカンパニー。要するに傭兵の類だ。そんなもの……。

「いくら就職先に困っていると言っても、兵士まがいのことはしません。能力もありませんし」

「能力があったらするのかい?」

「能力があってもしませんよ」

「そうか、それは残念だ。君はいい社員になると思ったんだが、当人が乗り気でないなら仕方がない」

 あっさりわたしを引き入れようとしたのと同じ気軽さで、男はあっさりと身を引いた。

「もし気が変わったらいつでもうちに連絡をくれたまえ! それじゃあ」

 言うだけ言って、男は去ってしまった。

 なんだったんだ、あの男は……。

 しかし…………。

「PMCねえ……」

 まさかわたしの人生に、そんなものが姿を現すとは……。

 いよいよきちんと就活をしないと、大変なことになるかもしれない。

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