TASK2:失った日 Nobody think My future vision
#1:はじまりの日
虫が知らせる、ということがある。
いや実際にカブトムシかテントウムシあたりが「大変でーい!」とわたしに喫緊の連絡をしてくれるとかそういうのではなく。
直感的に、何かやばいなとか、そう思うことがある。
その日が、ちょうどそうだった。
朝、いつも通りに目を覚ます。六時に起きて、少しだけぼうっとする。ベッドから降りて、二階の自室から一階の洗面所へ移動する。
身づくろいをして、薄く化粧もする。上二人の兄貴はどうだか知らないが、女性は化粧もマナーだなんて決められているから面倒この上ない。不器用なわたしはメイクなんてろくにできないからしたくないのに。
あまり不潔に映らないよう、髪を束ねておく。大学進学以来、髪は伸ばしっぱなしにしている。特に意味があるわけじゃない。だから最近では切ろうかと思っているのだが、背中を覆うくらいまで伸ばしてしまうと、何となく切り難かった。もったいないの精神がどうでもいいところで働いてくる。
朝食は、食べる気にはならなかった。ここしばらく、食欲がない。医者からは三食食べなければ精神衛生上よろしくないと言われているが、食べたくないものは食べたくないのだ。空腹は感じているが、食べることが億劫だった。
スーツを着る。クールビズなんて知ったことではない。ジャケットを着て、これで適当に準備は終わる。
わたしが準備を終えたあたりで、どたどたと音がする。二階から、誰かが下りてきた。まあ、こんな時間に降りてくるのはうちではひとりしかいないけど。
母だった。寝間着姿の母が、降りてきた。わたしが大学生になったばかりの頃は、年相応程度にしか老けていなかった。それが六年くらいして、実年齢以上に老けたような気がする。髪は全体的に薄く真っ白になっているし、顔のしわはより多く、より深くなっている。
こちらを見る目つきに険があるのは、単に寝起きだから、だと思う。
「……おはよう」
向こうから挨拶がなかったので、とりあえずこっちが挨拶をしておくことにした。
「おはよう」
ようやく返事が返ってくる。
「今から就活?」
「そんなところ」
母はテレビを点けた。単に、それが習慣になっているのだ。
『今日の天気です。愛知県は全体で晴れ。九月らしい残暑の厳しい一日になるでしょう』
テレビの向こう側では女性のアナウンサーが天気を教えてくれるが、そこに意味はさほどもない。雨が降ろうが槍が降ろうが、わたしはいつもどおりのことをしなければならない。そうでなければ、真面目な人間とは言われなくなってしまうのだから。
『天気の後は七時の特集です。今日の特集は最近その数を伸ばしている民間軍事会社、PMCについてです』
「就活の調子はどう?」
企業の話が出たから、というわけでもないのだろう。ダイニングの椅子に腰かけながら、母が聞いてくる。わたしも出発まではまだ時間が十分にあったから、椅子に座って母の話し相手になっておくことにした。
「どうにも。不景気だからね」
本当は、不景気だけが原因ではない。でもそれを言ったところで母には伝わらない。理解してもらえない。だから不景気だけが理由だと説明するしかなかった。
「秀秋は進学できたのにねえ。どうしてあんたは進学できなかったんだか……」
「……………………」
また、その話か。わたしと母が話すと、話題はどうあがいても同じところにループしてしまう。
わたしが進学できなかった理由は、いくらでもある。あれやこれやそれや。でもそれを言うと、母は不機嫌になる。人のせいにしているとなじる。
事実人のせいなのだ。わたしに非はなかった。客観的な事実としてそれを指摘すると角が立つなら、わたしは黙るしかない。
「夏生もずっとあんな感じだし……。あんたが就職してくれれば安心するんだけどね」
それは、そうだろうな。子どもが三人いて、今のところ誰もまともに就職していないんだから。一番上の兄夏生は絶賛引きこもりのニート。二番目の兄秀秋は大学の非常勤講師。その是非や成否はともかく、一般的な人間がその狭量な想像力で考えるところの幸福で平均的な人生設計から大きく外れているのは事実だ。夏生は他人にどう思われようと引きこもっているなら気楽な身分かもしれない。秀秋はきちんとした職を得ていると言えるが、大学教員のキャリア形成に疎い母からすれば非常勤講師など非正規職員と大差なく、不安定にしか映らない。
だからわたしには、普通であってほしいのだ。普通に大学を出て、普通に就職してほしい。ひとりでも子どもが普通の人生を送れば、自分が安心するから。
そんなものはクソくらえだ。わたしの人生は、母親を安心させるためにあるんじゃない。
それなのに。
今は、母親の言いなりになっている。どうしようもない。わたしの夢は、わたしにまったく責任のないところで突然打ち止めになってしまったのだから。今はただ時間を稼いで、夢へ再び歩みだすのに必要なものを搔き集めるしかない。そのためには、一度普通人のフリをするのも必要だった。
『PMCとは警察の特殊部隊や国防軍の対テロ部隊の業務を委託される民間企業です。最近、水道局の民営化が議論されているでしょう? あれの軍事版と考えていただければけっこうです』
テレビの中では、スタジオでスーツ姿の恰幅のいい男が何事かを説明している。
『近年、国内でもテロや銃乱射事件のリスクが増しています。ところが警察も国防軍も人手が足りないし、予算にも限度がある。そこで民間委託というわけです。民間企業は予算を倹約するノウハウに長けていますから。もっとも、人手不足だけはどうにもならず、これはPMCでも大きな課題になっていますが』
「頼むから」
母が言う。
「PMCなんかには就職しないでよ。人殺しなんて野蛮なこと」
「しないというか、できないって。銃も握ったことないのに、就職できるわけない」
人手不足だからといって、誰でもいいわけじゃない。結婚相手に対する願望が日増しに大きくなるようなもので、企業も人手不足にあえぐほど、即戦力という存在しない何かを求めだす。いるはずもない、入社してすぐ一人前の働きをしてくれる人材。それを企業が求めるから余計にミスマッチになって、就活は上手くいかない。
『人手不足と言えば』
眼鏡を掛けた理知的な女性コメンテーターが言葉を発する。
『国防軍のように、PMCでも奨学金の返済免除の代わりに働かせることを可能とする案が業界から出ていると聞きますが?』
『ええ。奨学金の返済に苦慮する学生と、人手不足で悩む企業を一挙両得で助ける案として注目されていますよ』
『国防軍で同様の制度が実施された際、国内外から経済的な徴兵制だと批判があったのをお忘れですか?』
『徴兵制なんてのは正確な言い方じゃないですよ。国防軍に従事するかどうかは最終的に本人の意志に委ねられているんですから。正義のヒーロー気取りの人権派弁護士がそういう強い言葉で批判することがあるそうですが』
『しかしですね、特に近年では諸外国の緊張状態が激化しています。奨学金を借りたばかりに前線に出され戦死する、というケースがいよいよ現実味を――――』
画面の左上に出ている時計を見る。七時半を過ぎた。もうそろそろ行くか。
「じゃあ、行ってくるから」
「いってらっしゃい。お昼は?」
「帰ってこない」
玄関に置いてある鍵とヘルメットを取る。荷物を入れたリュックを背負い、わたしは家を出る。家の脇に止めてあるトリシティにまたがって、ヘルメットを被りエンジンを掛ける。鬱屈とした一日にあって、バイクを乗り回すこの瞬間だけが救いだ。
今日もわたしは、ハローワークに行く。
バイクを発進させる前に、ちらりと家を見た。夏生が小学生になる頃にここへ引っ越してきて、建てた家。築年数はそろそろ三十年に近くなる。
なぜだろう、この家がそんなに静かでいつも通りなのは、今日が最後のような気がした。
虫が、知らせたのだ。
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