第9話 夢か現か
「ね、じらさないで一思いにしようね!」
風船が弾け飛んだような声が硬いタイルの壁に響く。早口に動いた和美の唇は紅くて、花びらのようだと、毅は思った。いつもは涼しげな目尻が釣り上がり、細かく震え、潤んでいる。
和美の強い負けん気は弱気の裏返しであることを、毅は知っている。和美が始めた喧嘩は、毅が謝ることでしか終わらない。自分から謝ることができないのも、和美の強すぎる自尊心の現れだった。和美も本心は自分と同じかも知れない。いつの間にか二人してこの不可思議な世界に迷い込んでしまったのだ。でも自分から誘った和美は、絶対に引き返すことなどできないのだ。
和美はくるりと毅に背中を向けると、四つん這いの格好になった。短い紺のスカートが辛うじて臀部を隠している。和美と壁の隙間に立ちすくむ毅は慌ててベルトを外した。ズボンがすとんと床に落ち、ベルトの金具が鳴った。
毅はしゃがみ込んでスカートの裾を摘み上げた。透き通るような肌と和美の臭気が毅を攻め立てる。
汚れ一つない肌に触れるのに、自分のどこに相応しいものがあるのか。毅はまめだらけの掌と、土が入り込んだ爪を見た。
「脱がしてよ」
つんと尖った声で和美が急かす。
しなやかな筋肉を柔く白い肌が覆う、引き締まった臀部がせがむ様ににじり寄る。下着に染みが見える。下着を腿まで下げる。和美の匂いがさらに放たれ、毅は眩暈がした。うっすらと産毛に覆われた白い尻に、左右にえくぼに似た窪みが見える。秘部には、薄紅い濡れた柔肌に縮れ毛が張り付くように生えている。大きな白い花の中に、黒い蝶が一匹張り付いて、蜜を吸っているようだった。
日ごろの自分の妄想が一切役立たないことを知り、その時毅は一切を諦めた。あれこれと夢想し、準備していた段取りは、現実を目の当たりにした瞬間に一息に吹き飛ばされるものなのだ。平静を繕い、毅は和美をなだめた。体だけではなく、声も震えていることに毅はさらに怖気づいた。
焦ることはないが、悠長にすることもできない。
落ち着こうと毅が息を吸い込むと、和美のシャツの下に滲んだ汗が、緩い斜面を滑るように背中を球になって伝ってきた。鼻孔から忍び込んだ嗅ぎなれた便所のすえた臭いと、和美の匂いとが、別々の場所から這うように体の隅々に侵し入り、毅を乱した。
毅は自分の右手人差しを口に入れて舐めた。曝け出された和美の秘部に恐る恐るその指を伸ばし、指の腹を秘部に沿って這わせた。指の動きに応じるように、和美は首をもたげ、身をよじらせた。和美が動く度に、便座カバーが音を立てて軋んだ。
毅は硬くなった自分の性器を眺めた。和美の白肌と今にも蠢きそうな赤黒い蝶、そして紅潮し切って強張った自分の性器。それらが不調和に毅の目前で息を凝らして、毅の動きを待っている。
既に毅のワイシャツは汗で濡れていた。毅はシャツを脱いで震える手で個室の壁に掛けた。
「そんなとこに掛けたら、誰かに見つかる!」
和美の声に慌ててシャツを取った。
「誰かいるのか?」
廊下の方から声がした。
「施錠をするから出てきなさい」
声の主は少しずつ近づいてくる。
どうしてよいのやら考えることももはや毅には難しくなっていた。
和美の声を聴きつけて廊下から誰かが入って来るに違いない。
職員室から最も遠い体育館の横に付いているトイレ。場所も最も安全なはず場所だった。
でも、誰か職員が残っていてもおかしくはない。いや、残っていないはずはないのだ。時間が来れば職員が必ず体育棟の施錠に来る。もっと遅い時間かと思っていたが、試験期間中はその時間が早いのだ。学校中に知れ渡る。そんなことになったらどうなるのか――。
去年の修学旅行先のホテルで関係を持ったカップルが、ネットの掲示板で匿名刺客達の槍玉に上げられた。数週間後二人は別れ、女子生徒は居場所を失い高岡高を去った。廊下を歩く疲弊しきった男子生徒が脳裏に映る。毅も掲示板に何事か書き込んだ。突如懺悔に似た気持ちに満たされ、胸がつまった。限界まで高ぶった感情が掻き乱され、錯綜としていく。ぎりぎり一杯まで注がれたコップからこぼれ出した水のように、毅が抱えきれなくなった不安が体全体に巡り、その不安が麻酔のように毅の力を奪っていく。意識の錯乱は、次に毅の思考を止め、恐怖や焦りも嘘のように霧散して薄れていく。消えた焦りとは裏腹に、毅の体は震え始め、顔から血の気が引いていくのが自分でも分かる。心臓の胸を叩く音に少し遅れて勃起した性器が音もなく微かに揺れた気がした。シャツの上から和美の腰をぎこちなく掴んでいた両手も冷え切っていて、和美に触れている感触ももはやはっきりしない。とても長い時間が一瞬で流れ去ったのか、それとも一時が長く自分の前に居座っているのか・・・・・・
自分といるのは本当に和美なのか――。
ひょっとすると、違う和美がここにいて、校舎を徘徊するうちに、自分だけがどこか別の世界に迷い込んでしまったのではないか。そうだ、もしかすると自分は誰かに嵌められ、窮地に追い込まれているのかも知れない。
待ちかねたのか毅をなじるように振り返った和美には動揺の色すら窺えない。それこそが本物の和美に違いなかった。彼女は、毅の冷え切った両手を振りほどき、毅のいまだに熱を失わない陰茎を叩き、強く握った。
「コンドームくらい早くつけなよ!」
鈍痛が雷光のように毅の体を駆け巡りながら、毅の体から立っている最後の力を搾るように奪い取った。
毅の顔に生温かい白濁液が滴る。二度三度と噴射された白い粘液は胸や腹にも流れていく。
視界の端で花弁の形をした光の欠片が落ちずにちらちらと舞っている。喉が渇いて熱い。息が気管を通る度に熱い風が擦り傷を舐めるような痛みが広がる。
便座と壁の隙間に座り込んだ毅は、個室から飛び出して行く和美を観ていた。下着を履き直し、上履きをつっかけて鍵を開けて出て行く彼女を、まるで映画館のスクリーンに映し出された映像を観ているように。それは自分を隔てた別の世界の出来事を観ているようだった。鍵を開ける音と、勢いよく扉が閉まる音が、少し遅れて毅の空っぽになった胸に響いてきた。見上げた天井からは、ファンが廻る音だけが聞こえてきた。
早夏のレクイエム @sTominaga
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