第5話 命の値段

五月十八日(月)

 2人は練習を終えて駅前の牛丼屋へ入った。

「どうして夜に牛丼屋で飯を食ってるやつってこんなに醜いやつばっかなんだろなー」  

功治は入ってくる客の顔を見て言った。

「なんてこと言うんだ」

 功治は毅の虚を突かれ呆気に取られた返事は気にせず、次の話を切り出した。

「なあ、インドでは子供が乞食として生きていくために、マフィアに頼んで腕を切り落としてもらうらしいな」

椅子の下に置いたバッグから雑誌を取り出し、肩を折ってあったページを開けた。毅も本屋で平積みになっているその雑誌を見たことはあったが、いい大人の読むものと思って手を伸ばしたことはなかった。本屋でいつも手の届くところで目にしていながら開いてみたことも内容を想像したことも無かったので、実際にそれを功治が手にとって捲っているのを見ていると、先を越されたような妙な気持ちになった。が、すぐにそれほどのものでもないような気にもなった。でもすぐに、いくら哀れであろうとも、遠い外国の地の子供たちに功治がどうして興味をそそられるのだろうかと考えた。そして彼は友人の広い好奇心と、独特の心の動きにまた一歩出遅れてしまったような気になって、それもまたどうでもよいことだと自分に言い聞かせた。

「オンライン版には載ってないリアルな記事がこっちには載ってるんだ」

 聞きもしないことも付け加えた。

「インドって一年の頃に倫理の時間に何かやったよな?」

そう言って毅は気になる功治の話から逃れるように、向かいの客に視線を移し、そのとき学んだ遠いアジアの国のことを思い出そうとした。「インド」や「印度」という文字を毅は牛丼の置かれたテーブルの上に何度か人差し指でなぞってみた。

シャカ。

仏教。

輪廻転生。

ヒンドゥー教。

ガンディー。

と、いくつかの言葉が浮かんでは来たが、テーブルに書かれたそれらの言葉は、ばらばらになって天井と毅との間をぷかぷかと浮遊しているだけで、何も彼に語りかけてはこなかった。

「この写真見てみろよ」

 功治が指差したのは褐色の肌をしたまだ小学生くらいの子供の、手首から先が無い写真だった。その子供は、乾き切っていていない左手の切断部を右手で力なく支えていた。しかし、カメラを見つめるその眼光は、今まで毅を捕らえてことのないほどの力で毅を捕らえた。

「すげえな・・・・・・」

毅は少年の視線につかの間怯んだが、功治の雑誌を掴んで引き寄せた。

「そう思うだろ? こんな小さな子が命がけで毎日食い物を手に入れてる・・・・・・」

記事には、最貧層の子供たちは将来職業につくことも、小銭稼ぎをすることもできず、生まれたときから物乞いとして生きていくことが決められていて、時には彼らの親が子供の体に傷や障害を与えて一流の物乞いにすることすらあると書いてあった。

「っへー・・・・・・こんな子どもがインドにはたくさんいるって・・・・・・」

「たった500円で俺らが旨い牛丼食ってる。こりゃなんかおかしくねえか?」

「まあな」

 一言そう応えると、途切れ途切れに聞こえてくる功治の話を頭の片隅で聞きながら、ぼんやりと平衡感覚を失った意識のままで、毅はシャカや輪廻転生という文字が浮かんでいる宙を見回した。

「なあ功治、シャカって仏教だよな?」

「そうだよ。それがどうした?」

「仏教ってそういうの認めてるのか?」

「そういうのって?」

「だから、子どもが腕切って乞食するのをだよ」

「そもそもインド人の多くが帰依しているのはヒンドゥー教だ。ヒンドゥー教には階層があって、それが貧富の格差と関係があるらしいな。ただしヒンドゥー教も仏教もキリスト教も、認めるも認めないも、人間が勝手にやってることだろ。どんなすごい宗教や法律があっても、人殺しだってなくなんないだろ。宗教が戦争を起こすってこともあるだろ」

「だから、そういう理屈を言ってるんじゃねえよ」

「どした? 急に」

功治は毅の褐色に焼けた頬が、少し紅潮しているのを見て取った。

「そんなら功治、リンネなんとかってどういう意味だっけ?」

「リンネテンショウって言うのが普通。リンネテンセイって言うのも聞いたことあるけど。要するに生まれ変わりだよ。全宇宙世界を魂は何度も生まれ変わりをして永遠に生き続ける。インドで一番信者の多いヒンドゥー教では、前世の行いが今の生まれに影響を与えるから、貧しく生まれたり、障害を持って生まれても、それは前世の行いの結果だからあまり哀れまれたりしない。そう授業で習わなかったか?」

「生まれ変わりだとか、前世だとか、そんなの関係なくね? それとこんなひどいことがどう繋がってくるんだ?」

「仏教にもそういう考え方があった気もするよ。お前、文系だろ? それくらい知らないと恥ずかしいぞ。俺は理系だけどそれくらいのことは知ってるな。そう言えばさ、最初はな、全然つまらないと思ってたからさ、ずっと数学の問題を解いてたわけな。倫理の授業中。そしたら上野が『今は倫理の時間だから数学なんかやるな』っつーわけな。俺は人類が生み出した最も美しい学問であり芸術でもある数学に対して『数学なんか』って言葉を上野が言ったことにカチンと来てさ、『倫理を数学的な方法で解いていました。それでも文句ありますか?』って言ったわけな」

その功治らしい強引で滑稽な物言いに、毅は思わず吹き出した。でも功治なら言いかねないと思い、カウンターテーブルに散らばった茶色い肉汁で光る米を備え付けの紙で拭き取りながら訊いた。

「そうしたら、上野は何だって?」

「『ほう、面白いことするじゃないか』って」

毅の想像の中で、上野の四角いゴリラ顔が困った顔で笑う。

「上野のおっさんも負けてねーじゃん」

「それでよ、実は数学と哲学はもともとは同じ学問だったって、そう言うわけな」

「難しくてわかんないな。どーいう意味?」

「ソクラテスもアリストテレスも哲学者であり数学者でもあったと。この世界の成り立ちを証明したりする方法の一つが数学で、もう一つが哲学だって言ってた。確かにアインシュタインも哲学的なことを言ってるしな。空間は縮み、時間はゆっくり流れる」

「は? ますます難しくてわかんねー。お前はとことん何を考えてんの分かんねー」

功治は半分になった牛丼に二つ目の生卵を入れて、紅しょうがを一つまみ放り込んだ。卵と丼の中で混ぜる箸の音がしたかと思うとそれをぺろりと功治は飲み込むように平らげた。

「それでさ、その時間はずっとそんな感じで上野の話は脱線してたけど、その話が面白くてさ。それ以来俺は上野の授業は一番前の奴に席を替わってもらって最前列で聞いてた」

「お前が最前列に座ったら後ろのやつが迷惑だろ。黒板見えねーし」

「それは平気だ。しっかり席は選んだ。後ろは滝瀬」

「サッカー部の?」

「あいつは早弁したいから俺の背中を借りて安心して早弁してたな」

「確かに上手くいってんな」

功治が片手を挙げて店員を呼んだ。

「牛丼大盛り。もう一つ」

「あ、俺は牛丼並一つ」

「まさに社会貢献だろ」

「はあ」

「滝瀬は毎週その時間は喜んでたぜ」

二人は声を合わせて笑った。笑いがおさまる前に、牛丼大盛りと牛丼並が運ばれてきた。

「汁だくって言いませんでしたっけ?」

功治の強引な物言いに、店員は頭を下げた。毅は左手首に巻かれた腕時計を見た。何時に店に入ったか忘れたが三〇分は経っているだろう。二つ目の丼には一粒の米も残っておらず、掻き込んだ時にできる箸の跡が乾いた肉汁の上に残っていた。食事を得るために手首を切り落とした子どもの強い眼光が丼の中に映った。茶碗を置き、左手首から時計を外した。衣服を剥ぎ取られたようになった左手首は、少しだけ日焼けが薄く白かった。その白さが毅に和美を思い出させた。

「しゃけ定食一つ」

功治の大きな声が奥にいた店員を呼んだ。

和美という濁りのない真水が、毅の胸に一滴落とされた。それは瞬く間に毅の胸を充たし今にも外に流れ出そうだった。

毅はそれを押し隠すように、左手首の上に右手を載せた。

功治はすぐに定食を平らげた。手持ち無沙汰になった友人に食べながら毅は昔話を振った。功治は黙ってスマホをいじっている。

「お前は小学生の時から秀才だったんだろ?何をやっても成績はずっとクラスで一番か二番だったって・・・・・・」

「中学から私立に行った女子には勝てなかったな、たしか」

相変わらずスマホの画面を覗き込んでいる。太い右手の人差し指で、意図した操作ができるのか、傍から毅は口を出したくなる。

「おまえの指じゃ無理だろ。棒で操作できるのを買った方がいい」

「そうそうだった。学級委員長とか目立つのはみんなやってたあいつにはいつも負けてたな」

功治は毅の心配などよそに話を続ける。

「中学からその子は私立に行ったな」

「そっか・・・・・・」

カウンターにスマホを置いて、今度は割り箸の先を奥歯で潰すことに必死になっている功治の横顔を毅は見た。客の消えた店の隅に、大きな丸刈りの小学生が体を目一杯使ってブランコを漕ぐ姿や、小さな机に背中を丸めて座り、宇宙や星の本を読む姿を毅は想像した。

「功治、お前ほんとは将来何になりたいんだ?」

「あん? なんだよまたそんなこと聞いて。今日のお前はいつもとちょい違ってておもしれえな」

「とりあえずお前のインドのガキの話よりはまともな話だろ」

二人は黙って目を見合わせた。

「宇宙飛行士」

二人の声が重なった。示し合わせていたようにまた二人の笑い声が響いた。

「将来のことなんて、そんなことは今はどうでもいいんだよな、毅」

「確かにそーだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る