第4話 二人

7月17日に始まる夏の甲子園の県大会予選でベンチに入るためには、6月初めに決まるベンチ入りメンバーに入らなければならない。そのメンバーに入るためには、遅くとも5月中に監督の坂田に、その実力を認めさせなければならなかった。

――時間はない。今月中に結果を出さなければならない。

 内野のノックが終わり、ノッカーがさらに力を込めてバットを振りぬく。叩かれたボールは、羽ばたく鳥のように、空を切り裂いて飛んでいく。小さいボールがさらに小さくなり、その色すらも確認できないほど小さな点になったころ、走りこんできた外野手のグローブにおとなしく収まっていく。一人目の外野手がそのボールを取る前に、次のボールが放たれ、同じ方向に次の外野手が走り出す。同じ軌道のボールが等間隔で放たれ、それに合わせて選手が走りこむ。コンピューターに予め選手の走力がプログラミングされたかのように選手の追いつけるぎりぎりのところにボールが打ち放たれる。

 百メートル近くも離れている所から飛んでくるボールは、功治の手前に来てもまだ、飛びたいという欲を失ってはいないようであった。最後の力を振り絞って自分を振り切ろうとするボールを、功治は目いっぱい左手を伸ばして掴み取った。

「ナイスキャッチ!」

 少しオレンジ色が少し染み入った空を仰いで、胸いっぱいに息を吸い込み、額にできたばかりのたんこぶを撫でた。


全体練習が終了すると功治と毅は、二人で練習を始めた。まだ全体練習を終えたばかりの冷めない体から、尽きたはずの力が、すぐに湧いてくるのが我ながら不思議だった。バットを左手一本で50回振る。それを3セット。その後両手で素振りを50回。それを5セット。バットを黙々と振る。毅は無心でバットを振る。右肩の上に構えたバットを臍の前まで最短距離で振り下ろす。バットが描く軌道に無駄はないか。バットの重みに体の軸がぶれていないか。目は常にバットとボールが当たる位置から外さない。それらのことをバットを振るたびに確かめる。  

(好打者は自分の体の動きを精密に検査する装置を自分の中に持っていなければならない。何かを考えたり感じたりする能動的な作業ではなく、精密機械が正常に起動するかを何度も検査する至極受動的な作業である。その点検作業が正しく行われていくうちに、バットを強く速く正確に振る力と感覚が、体の隅々に自然と備わっていくのである。)熟読しているバッティング理論書の文章を、毅の身体は覚えている。全体練習後の2人の練習メニューは毅が考えたものである。

素振りが終わると次はティーバッティングだった。斜め前から打者の前にボール軽く投げ上げ、打者はそれを前のネットに打ち込む。百球ずつ2人で交代で打つ。

樵が深い山林で樹齢何十年もの大木を切り倒す。樵が振り下ろした斧が幹に刺さり、その音が静かな山林に響く。功治の練習を見ていると、そんな情景が毅の脳裏に浮かぶ。自分が見たこともない別世界の有様を、ありありと彼の脳裏に映し出してしまうほど、功治のスイングは信じ難いほど圧倒的な力に漲っている。バットは、構えられた位置からボールをとらえるまで無駄の無い軌道をとっている。毅の目の前を通り過ぎていく木のバットは、毅が投げ上げたボールを微かな残像を残してネットに打ち込む。バットがボールを弾く短い硬音は、暮れた校庭に放たれる。ボールを受け止めるネットも功治の打球を受け止める度にきゅっきゅっと鳴ってしなる。一心不乱に自分の上げるボールをネットに打ち込んでいる打者の姿に毅は見とれてしまう。

この精密さと力強さを持つ大男だったら―これからやってくるいくつもの強豪も、跳ね除けてくれるかも知れない。手に負えないほど大きな夢を、容易く叶えてくれるという甘い想いに、毅の心は占められていくのである。これまでも幾度となく毅の胸に湧いては膨らんだ。寒さに体が動かない冬空の下で、功治は重いベンチプレスを軽々と何度も持ち上げているのを遠くから見ていた。強豪相手に孤軍奮闘し、上級生中心のチームを勝利に導いた試合の一部始終をスタンドから見ていた。これまでは遠いところから見ていた功治の凄まじさは、近くで見てもなお、桁違いだった。走攻守バランスのとれた今のチームが、絶好調の彼に率いられれば、甲子園出場も今までの空想とはではなくなると毅は確信していた。

聖地、甲子園。その土を踏む。その願いが結実する。その時はもう目前に迫ってきている。あと2ヶ月もすれば、自分たちの夢は叶うかもしれない、叶ってしまうかも知れない。しかし、聖地に自分の足で立つには、毅は厳しいチーム内の競争に勝たなければならなかった。県予選のメンバー二〇人。甲子園のベンチに入るためには、さらに絞られた十六人の中に入らなければならなかった。これから追い抜いていかなければならない部員の数に、膨らんだ毅の胸は急に萎み始めた。

功治のバットが5箱目のボールを全て打ち終えた。

「ちょっと休憩すっか?」

「いや、やっと体が温まってきた。まだ休憩はいい」

 功治は半そでのアンダーシャツを肩までたくし上げた。褐色の上腕二等筋の上半分は生赤ん坊の肌のような白さだった。毅が考えたこのメニューはバットを徹底的に振るということにその意義があった。ずっと前から毎日実践していた毅に比べて功治にはバットを振り続ける持久力はなく、始めた当初はすぐに音を挙げていたが、今ではその頃が嘘のように毎日着実にメニューを終える。

「とりあえずもうひと箱な」

余裕の一言を吐いた功治とその言葉に黙って頷く毅の間を、夏の匂いを運ぶ夜風が通り抜けた。

 つい先月まで、毅と功治とは同じ部にいながら必要以上の会話や交流は無かった。功治は家も高岡高でただ一人神奈川県箱根にあり、他の部員が居残りで練習する中を早く帰ることが多かった。それでいて一人浮いてしまうこともなかった。功治の実力は神奈川県内の有名私立からも声がかかったほどで、部内でも一目置かれていたこともあろうが、しかし彼の纏うつかみどころの無い飄々とした空気と、憎むに憎めない頓珍漢な挙動が、押しも押されぬ中心選手でありながら、からかわれ役でもある唯一無二な待遇を彼に与えていた。

 195㎝という高校球児としては規格外の大柄な功治は、大きな動きを求められる外野手だった一方で、小柄で身軽な毅は、小中高とどこのチームでも内野手であり、そして常に補欠だった。部内やクラスでも目立たぬ存在であった毅に対し、功治は常にレギュラーを張ってきたし、その存在は部を離れてもやはり異彩を放っていた。野球だけでなくあらゆる点で真逆の二人は、どちらが避けるでも近寄るでもなく、入学以来常に一定の距離が存在していた。

それまではほとんど親しく接したことの無かった2人が関わりを持ったきっかけは、3年のクラスが同じになったという単純なものである。長引く不況で国公立進学コースを志望する生徒が増え、国公立を目指す生徒の一部が私大クラスの教室を間借りするようになったため、国立志望の山郷功治と私立志望の山浦毅は同じクラスで出席番号が前後になった。同じ部でありながらそれまで会話が接点の少なかった2人だが、一度野球の話題になれば今までの疎遠だった関係などお互い気にならず、すぐに旧知の仲のような関係になれた。毅を惹きつけたのは、功治の野球への取り組みが我武者羅だったからではない。予想以上に冷静かつ論理的で、野球の中に独特の世界観を作っていることだった。入学してすぐ、まだ試合用のユニフォームが届かないうちからレギュラーだった同い年の大男は、ピッチャーが投げた球を本能の赴くまま、才能に裏打ちされた動物的なセンスに任せて打ち返していると、功治と遭うまで毅は思っていた。それが話しているうちに自分の勘違いであることを毅は知った。

 大男は、その大きな体に似合わないほどに緻密な計算や相手への洞察を利かせていた。それは一瞬のうちに湧いて出る発想でもなく、短時間の思索で至る結論でもなかった。また野球を解説した動画や本などに少し触れる程度のにわか知識でもないことは容易に判断できた。彼が大男になるずっと前から、勝負について真摯に向き合ってきた末に手にしたものだろうと毅は思う。

「試合が始まる前に勝負が付いている打席もある」

という言葉は彼が毅に語って最も興味深かいものだった。練習を怠っていたせいで試合で満足にバットが振れなかった功治自身への戒めの言葉として聞いていたが、他方で彼にはもっと違った意味でもその言葉が吐き出されたのかも知れぬとも考えていた。

 功治は功治で毅と近くなることで、ある変化が起きていた。それまで功治は他の部員がする素振りやティーバッティングなどの地味な練習をほとんどしなかった。それが毅に功治がセンスに任せて打撃をしていると誤解させた一つの原因でもあったのだが。全体練習が終わると、多くの部員たちはその後1~2時間ほど各自の練習をこなしてから帰る。功治はストライクゾーンを高さを高め、真ん中、低めに三つに分け、コースをインコース、真ん中、アウトコースの三つに分ける。そうして九つに分けられたコースごとに10回ずつフォームを確認しながらバットを振って帰っていく。

 しかし功治は毅と親しくなった4月から毎日の素振りとティーバッティングに付き合うと自ら言い出した。

 それまでと同じように90回しかバットを振らなかった功治も、薦められるわけでもなく毅と同じように何百回もバットを振り、ボールを黙々とネットに打ち込むようになっていた。

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