第6話 片腕の選手

 サラリーマンばかりが入れ替わり訪れる夜の牛丼屋で、収まりそうにない会話に勤しむ自分たちは滑稽で、収まるべきところにきちんと収まることのできない存在に毅には思えた。それは笑えることでもあるし、考えようによっては泣けるようなことでもあるような気がした。


 功治が黙ってまたスマートフォンをいじり始めたので、毅も食べながら和美のことを考え始めた。和美の掌はだいたいいつも冷たかった。手をつなぐとよく彼女は毅の温かい掌に驚いた。掌だけでなく、大抵どこも毅のほうが温かかった。肉刺でごつごつになった掌が彼女の傷一つない柔らかな肌を汚してしまわないか心配になったが、小さな傷くらいならつけてしまいたい気になることもあった。



 ヒンドゥー教についてひとしきり調べ終えた功治は空になったコップを右手に持って回しながら物思いに耽り始めた毅を確かめて、またインドの子供の乞食について考え始めた。あの子は、なぜそんな過酷な運命に生きなければならないのだろうか。ヒンドゥー教の説くとおり、あの子自身に理由があるのだろうか。本当に因果応報に裏打ちされた生まれ変わりなどあるのだろうか。だとしたら生まれ変わりはいつまで遡ることができるのだろう。今目の前にある結果は、なんらかの行動の結果であり、その結果には必ず原因がある。そしてその原因も何かの結果であり・・・・・・すると、無限に繰り返す原因と結果の末端に彼は存在する。それならば、その始まりはいつなのだろう。


それとも人間は死んでしまえばそれでお仕舞いなのだろうか。この世界は、ただの始まりと終わりをもった無数の命で構成されているのだろうか。脇や胸が急に熱くなり、汗がにわかに功治の肌に滲み、喉が渇いた。功治はカバンに牛乳を忍ばせてきたのを思い出した。



 隣の功治がカバンから何かを取り出そうとする気配がした。ふと見ると、カウンターに置かれたのは昼食時に配られる赤い牛乳パックだった。それをコップに注いで、グイっと一飲みに飲み干そうとしている。


「ぎゅーどんにはぎゅーにゅー」


口の周りに白い髭を生やした大男がにんまり笑った。毅は口の中の鮭と白米とが混ざり合ったものを吹き出しそうになるのを堪える。咽こんだ毅と対面のカウンターに座った客の目が合った。紅生姜を乗せた牛丼を無造作に口に放り込む客の顔は全体に紫がかっていて、いつか毅がうなされて夢に見た、人を死へとさらっていく死神を思い起こさせた。彼の両頬の痘痕が奇妙なほどに浮き出て見えた。


「あれが500円で命をつないでいるやつらの顔だ」


牛乳で白くなった唇を小さく動かして功治は言った。


「やつらって言っても、500円で牛丼食ってるのは俺たちも同じだろ」


息を整えて毅は言った。

500円だって、一ヶ月食べ続ければけっこうな金額になるし、一年間に換算すれば大金だと言おうとして思いとどまった。


「そーなんだ。それだから問題なんだなー」


そう言ってまた空になったコップにパックに残った牛乳を注いだ。


「だから何が問題なんだ」


「俺らもこんなこと続けてたらあんな顔になっちまうって。あんな汚ねーおっさんになっちまうんだな」


「・・・・・・」


「インドの子供乞食は自分の片手を懸けて飯を食う。でもこっちはそれをたった500円でやってる。インド人の命よりも俺らの命の方がどれだけ安いかって、そういう話な。お前ならこの話の意味は分かるよな」


功治の丸く仁王のように見開かれた目がレンズの向こうから毅を見ている。茶碗の中の牛丼を懸命に掻きこむ男性とインドの子どもの顔が重なる。毅は急に息苦しくなり、食べかけの定食の上に箸を投げ出した。


「もう食えねー」


 向かいの客が勘定を終え、足早に店を出て行った。白い半袖のYシャツから出る細い陽に焼けた腕がくいと曲がった時、毅の脳裏にはいつか見た少年の姿が映った。

 中学生時代に出会った片腕の選手のことを思い出した。左打席に立ったその選手は、右手一本で、低めいっぱいのストレートを掬い上げて大きなセンターへの飛球を打った。前進守備のセンターが後ろ向きに倒れながらダイブしたが、その向こうに打球は転がっていった。センターが懸命に追いかけてボールを内野に返したので片腕の選手は三塁ベースを大きく回って、ホームには返らなかった。センターからの返球を称えるチームメイトの声に同調しながら、中学生の毅の目は、三塁ベースに戻って悠々と味方ベンチの歓声に応える片腕の選手に釘付けにされていた。


「どうした?」


「いや何でもない。でも、それが問題だって言われても、おれたちにとっちゃどーもできないことだろ。あのおっさんだって好きでこんな安い飯を食ってんじゃねーかも知れねえぞ」


「確かにその通りだ・・・・・・つまり、この問題の大きなところはよ、自分が望もうが嫌おうが否応なしにそのでっかい流れって言うか、渦の中で何かに巻き取られちまうってことだ。知らないうちに、安物で腹を膨らませて、安物で着飾って、そのうちみんな汚ねえものになり果てていくんだな。地球上の生物が地球の引力に逆らえないようにな・・・・・・」


 汚ねえものに成り果てる・・・・・・功治の言葉が毅の意識をまた天井の下の空中に引き寄せた。しかし、そこにはもう仏教や輪廻転生などの言葉は浮かんでおらず、縦と横に等間隔で直線を這わせた何の変哲もない薄茶色の天井があるだけだった。充分に腹が膨れ、功治の語る数々の「大問題」に付き合うのがうっとうしくなり、自分から向けるべき話を考えあぐねているとき、カバンのスマホが震えた。和美からだ。


「おつかれー」


毅は彼女の顔を思いながら電話に出た。重石を載せられていたように苦しかった胸に新しい空気が入ってきたように胸が晴れた。


「風呂から出た?」


 彼女の現実離れした美しい肢体が寸分違わず思い出せることが毅には誇らしかった。少なくとも横で無邪気に牛乳を飲んでいる功治にはまだ知らない世界を自分は知っている。それだけでも充分な気がする。


風呂から上がって髪をドライヤーで乾かす前にパジャマを着てタオルで一度髪の水分を拭き取る。その数分の間、毅は和美と話すことを許された。毎日グラウンドを走る彼女も在京の国公立を志望しているので、受験勉強と練習で束の間の時間も無駄にはできないのだった。和美はほんの少し、今日あった出来事などを話すと電話を切る。彼女は髪を乾かした後で、また寝るまで机に向う。


電話を切った毅は、明日もまた和美と会えると思うと、ズボンの中が硬くなる。毅はそれまで自分を飲み込もうと迫ってきていた功治の訴える大問題など、もう恐れるに足らぬことになった。


そんな毅をよそに、功治はまたひとしきりこの世の不条理について饒舌に語り、物思いに耽っていたが、彼の中にあるスイッチが切れたのか、彼は不意に毅の背中を叩いた。


「出るか?」


毅の返事を待たずに自分の椅子の下に置いておいたバッグを片手で軽く引き上げ、それをそのまま肩にかけて釣りの要らない勘定をテーブルに無造作に置いて出て行った。


 自転車に跨ったまま毅は駅へ向う功治の背中を見送った。毅は電話を切った後、和美のことで頭がいっぱいになり、夜は勉強など手に付かないと話した時の、功治の無愛想な横顔を思い出していた。




暖かい向かい風の中を、毅を乗せた自転車はゆらゆらと泳ぐように進む。サドルから伝う滑らかなコンクリートの感触をいつになく心地よく感じた。そして、片腕の選手のことも功治にはいつか話さなければいけないと思った。

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