純喫茶ノワール来店手帖

Youg

プロローグ

 ビルの隙間からさす朝の陽ざし、優しく肌をなでる春の風、野鳥の甲高い歌声。やわらかな季節に迎えられ、僕は店の外に出る。

 お客様を迎える準備をしなくてはならない。


 時刻は午前7時。


 雲一つない青空が東京の街を包み込んでいる。

 店の前とテラス席の落ち葉をほうきで掃い、机と椅子を外に出す。雑巾でかるく机と椅子を拭き、不具合がないかを確認する。店の周りに咲いている植物に水をやると、日の光を受けて水滴が美しく輝いていた。

 最後に店の前に店名が書かれた看板を置き、「OPEN」と書かれた看板を入り口にかける。

 一通りの準備が終わり、外で軽く体を伸ばす。

 植物に囲まれたこの場所で春の新鮮な空気を全身で取り込み、今日という一日の始まりを感じる。


「さてと、今日はどんな人が来るのか」


 振り返り、店の入り口の上に大きくかけられた木の看板を目にする。何年、何十年と雨風に耐え、風に打たれても倒れることなくこの店を守り続けたぼろぼろの看板には、今でもわずかに文字が残っている。


「純喫茶ノワール」


 都市化が進み、高層ビルが立ち並ぶ東京の一角。

 周囲をビルが囲み、ぽっかりと穴が開いたように緑が円の形のように生え、その中心にこの店はぽつんとたたずんでいる。

 僕はそんなこの店の店主をしているしがない男だ。


「キュー」


 美しい橙色と白色の毛並みに徐々に深い黒に染まっていく黄色の瞳の狐が鬼灯が生えている花壇の隙間から出てきた。


「やあ、おはよう。リーナ」


 彼女はこの店の看板狐にして案内役を務める不思議な狐—リーナ。


 この店には、「とある人」しか来ることができない。その「とある人」は彼女に案内された人だけだ。彼女は心に悩みや不安を抱えて苦しんでいる人を見つけてはこの店に案内する。僕はそんな彼らの話し相手というわけだ。


 一応、前置きをしておこう。

 これはこの店と一冊の手帖にまつわる物語だ。この店と訪れた人をめぐる人間の話だ。


 人の感情には、それぞれに多種多様な色が存在する。その色は心を映し、時にその人の生い立ちをも映す。まったく同じ色をまとった人など存在せず、あたりまえではあるが、まったく同じ人生を送る人など存在しない。目を背けたくなるような人生を送り、だれにも打ち明けられない大きな過去を背負って生きている人もいる。


 ならば、僕は彼らから目を背けてはいけない。それが僕の使命であり、責任でもある。


 さて、そろそろ開店の時間だ。

 飲物の用意を進めて、お客様を待つことにしよう。

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