放浪剣士エレナ

私掠船柊

放浪剣士エレナ


 この一帯は、“背の高い者”が一望すれば有機粘土質の地面も点在していることが目に入るのである。


 しかるに、枯れ草も混じり、敷き詰められたような緑の草の上で、顔に幼さを残す一人の男が弓を手に横たわっていた。羽虫が不快な音を鳴らして彼の動かぬ顔をかすめていく。


 死臭をかぎとったのかもしれない。


 だが、その体はまだ暖かそうだ。


 すでに命の輝きを失った青い目は、暗雲が彼方まで広がる上空を見上げたまま、もはや動くことはない。


 その屍の傍らで、革製のブーツを履いている足が、爪先を屍に向けたまま動かずに影を落としていた。


 茶色の髪を、後ろへ三つ編みにたばねているたおやかな女性の顔が、横たわる彼の死顔を冷ややかに見下していた。しかし、目のふちどりは憂いがこもっていた。彼女の握っている剣の先端から、血が草葉の緑へしたたり落ちている。


「まだ、若いのに……」


「へへへ、それだったら、その若僧弓兵に一つ祈ってやったらどうですかい?」


「わたしは、魂のことなど、興味がない……」


 牧人も牛もいない牧草地。空高く飛び交うカラスの鳴き声が風景に紛れる中、男女二人の、どちらかといえば男の方が声を投げかける。


 遠くなだらかな丘陵の向こうは、絵の具の数に限りがある人間にはそのままを描くことなどできない風景が広がる。大地と、屋根のごとく広がる雲の隙間で薄い黄色が輝いている。その地平からの神々しい灯りが、死んだ者を眺める男女二人の寂しげな姿の輪郭を、影絵のように浮かび上がらせていた。


 傍らにかがめる男は、長チュニックの上に頭巾付きの茶色い外套をはおり、虚無感をただよわせた笑い声を混ぜながら、祈りを彼女に勧めてみたものの、返ってきたものは実に無情な口調であった。


 彼女の返す一言は、しかし、そのすぐ後が無言となった。


 草原は湿気のある風でなびく。


 草の波は二人の間や周辺を通りすぎ、これから更に鼻をついてくるであろう死臭をさらって、離れた森の中、霧がまだらに漂うその奥深くの暗い所へ、狼や得たいの知れない存在が身を潜ませていそうな果てのない空間へと流れては消えていく。


 人間の営みなど余所事として、木々の葉と葉は、浜辺のさざ波にも似た音を奏でた。


 茶色の髪を後ろにまとめた彼女の頬を、風が、黄泉の国から訪れた精霊の指先のごとく、誘惑ぎみに触れていく。ほぐされた髪のひと束が汗でしめったしなやかさでたわみ、若い女の頬にまとわりつく。


 草がなければ波打つ風は見えない。


 飾り気のない厚手の長袖、長ズボンを着古す彼女の胸には、安っぽい金属板の甲冑がただ一枚、すすけた鈍い鉄色を暗雲たれこめる遠くのものを火影としていた。


 女の手袋が長剣をにぎり続ける。


 彼女の剣先には血糊がべっとりとついていた。その赤く汚れた剣先を今見下している死体の服にこすりつける。落ちている頃合いなボロ布の塊を使って、ちょっとした道具の後始末をするように、二度三度、丹念に血液を拭いとった。それは日々の食卓で、ナイフを使ってパンにジャムを塗りつける何気ない動作を連想させる。


 彼女の周囲は、他に埃と泥、そして血にまみれた数体の屍がところどころで横たわっていた。いずれも兜や甲冑、中には鎖帷子を身につけ、手に剣をにぎったままか、斧や棍棒を捨てたように転がさせ、それとも草を鷲掴み、あるいは無駄なことにも斬られた腹をおさえたままの姿を無惨にさらしていた。


 彼女の唇から、一仕事を終えた空気がため息のごとく漏れ出る。


 ところが、話しかけた男は、彼女とはまた別の“品物”を眺めていた。


「へへへ、こりゃいいや。それじゃ、仕事を続けさせてもらいますぜ」


 彼は、女剣士から離れて、別の屍を前にしゃがみこむ。顔を地面にうつ伏せ着けた屍の後頭部に、ためらいもなく手を伸ばし、乱れた髪の毛をつかむ。引っ張り上げて草と土に汚れた死に顔を、よくよく眺めた。


「へへへ、いい顔して、よく死んでやがる」


 男はやさぐれた笑顔に白い歯を覗かせた。奇妙なことに男の手には武器はない。すでに硬貨の金属的な音をジャリジャリとたてる小さな皮袋がしっかり握られている。彼は空いてるもう片方の手で死体のあちこちをいじりまわした。


「死人は金を使えないからな。わしが野盗の相続人になってやろう」


 死体の上着の内側やポケットを探り続ける男は、自分自身を納得させるためか、もっともらしい大義名分をつぶやく。剣の先を眺めていた女は、その点検する視線を、かがんで仕事をはじめた男へ向けた。


「あさるのも、ほどぼとにな。修道士」


「何を言ってますかい? あなた様の軍資金を調達しているんでございますよ。ほら、見ておくんなさい。今夜の宿賃にはなりますぜ。エレナさま」


 死体あさりを揶揄された男は、その目的がいかなるものか納得させる旨に返した。女剣士は、腰に手を乗せて困った顔を作る。


「毎度毎度助かっているよ。でも、おまえの酒代も計算に入れているのだろう? 泊まる宿を選ぶとすれば良いビールを出す寝室付きともう決めているのではないのか?」


「えっへっへっ。よくお分かりで。疲れた体に酒よりきく薬はございませんで。この通り、エレナさまの剣技に守られていますから。傷ひとつありゃしません。なにせ、深傷を負えば、それまた酷い目に合いますからね。わしは方々の教区で見てきたんですよ」


 酒好きな点までを指摘された修道士は、苦笑を隠すことなく、一つ二つと話題を替えてきた。女は視線を森の向こうへ投げかけたところで眉をしかめて考えにふける。その姿勢は束の間で、また男を見る。


「霊魂が肉体を支配しているという『精気論』に基づいた医術によって、治療をほどこされてしまうと、死ぬまでの時間をただ苦痛で伸ばすばかりだからな」


「そうそう、よくご存知で、そうでごぜえやす。その点、医術に長けた牧人やら薬草に通じる昔ながらの村の老女が頼りになりますからね。それなのに、エレナさまも知っておられるでしょうが、教区のカテドラルでふんぞり返る司教が、それを妬んで他の異端者どもにしたことと同じく、魔女裁判にかけて火刑にしちまったところなんか、よく見ましたよ。丹精込めて作った村外れの薬草園を灰にしちまって。気の毒なもんさ」


 男は、さまざま目の当たりにしたことを触れ、そしてまた、エレナを中心に草原で散らばる別の死体へ目を止め、歩み寄っては、ただの拾い物でもしているかのように身を屈める。


「へえー、こいつも、よく死んでやがる」


 男はできたばかりの死体の切り傷を見下ろした。次に片手を使い自分の額から胸へと縦に宙の線を描き、すぐに横の線を交差させる。すなわち十字を描き、祈りの姿勢をとった。格別、込み上げるものもない表情を浮かべながら。


「主よ、この迷える子羊をどうかあなたさまの分け隔てぬ愛により、天国へ導きたまえ。……そして、今日も、魂が去った後のこの哀れな脱け殻から、糧となる収穫を得たことに感謝いたします。……アーメン……ヒヒヒ」


 男の口から祈りの言葉が、どこまで心を込めたものなのか疑わしいほどに手慣れた口調で流れた。女剣士はそのしぐさを目で笑う。


「ふっ、クソ坊主が。祈るしぐさだけは一人前だな」


「修道院にいたころの名残というか職業病でございます。ええ病でございますとも。……戦争で負傷して死にそうな奴、病人、災害、飢饉で苦しんでいる人間。それに怪我人、そう怪我人です。でっかい教会を建てるときは、事故がしょっちゅうありましてね」


「ふむ、建築の仕事もしていたのか?」


「へい。短期の雇いで修理などもやっておりましたよ。サン・サヴァン教会の礼拝堂は脇の窓から光がよく入り、五十八の場面が描かれている天井画は、それはそれは見事なものです。プロヴァンスの三姉妹の長女、ル・トロネ修道院はとある一徹な築城監督の後についていって見学しましたが、そのときはとかく暑かったけれど、あれは建築家にとって聖地でしたね。モワサックのサン・ピエール教会はご存知ですか?」


「入口のタンパンは、それまでになかった大きなキリストの彫刻があるのだろう?」


「おお、知っていましたか」


「どこかの高名な修道僧が、つまらない信仰心を理由に、様式のことでこと細かく造形の描写を吊し上げたうえに、うるさく断罪していたが、私は中でも柱頭彫刻で描かれた異形の物たちの造形は、どれもプラトン的な世界観の空想から来たものだとはいえ、魅力的だと思っている。どうした? 今、浮かぬ顔を見せたな。言ってみろ」


「へい……。今また事故の光景を思い出しましてね。積み上げた石が崩れ落ちた日には日雇いの手や足、頭が潰れて悲惨な最後でしたよ。人間よりも重たく大きな石が砕ける音の中で聞こえた悲鳴声は、今も耳に残っていましてね。その日の夜に飲んだ蜂蜜酒の味は忘れられねえ。……それをただ何もせず見ているだけだと悪人にされちまうことがありますが、祈れば魂を救済したことになって、たいそう深い善意を持つ人間に格上げされますからね。原資不要で利益があがるんで、祈りは実に便利ですぜ。おっと、こんな事いっちゃいけねえな。世界中の神父がみんな思っていることをついつい口にしちまった。違いますよ。みんなみんな、誠心誠意、全身全霊で主の御心に従ってね、美を追求しているんでございますよ……へへへ。どうです。エレナさまもひとつ神さまの心に届くお祈りを一つでもね。へへへ」


「フッ、神の心か……それは、人間の自然に対する道理の暗さゆえ……」


 頭皮の中心を剃刀で剃ったその男の、聖職者らしい風体の、口からでる上品とは言い難い言葉を、にもかかわらず、耳にしたエレナは冷笑と思わせ振りな独白の中に埋めるばかりである。


 そこで、男は彼女の言葉に気を止めて眉尻を歪めた。


「なんです? その分かったようなセリフは? エレナさま、天界の事でもご存知ですかい? 神様がわれわれ人間をどう見ていらっしゃるかご存じなんですかい?」


「もとから存在しないものの視点など知らぬ。だがきっと、土から造った思い通りに動かしたい肉の人形と見ているのだろうな。たぶんこうだ。“ああ、なんてことだろう、全知全能なはずの私は、不完全なものをこしらえてしまった”と、だから、私はこう答えよう。おお神よ、自らの間違いを反省する器量もないお前を心底、哀れんで涙を流してやろう。少なくとも偉そうにしているお前と違って私は泣くことができるのだ」


「ああ、なんてこと言うんですかい。罰があたりますぜ」


「是非とも神罰にあたってみたいものだ。例えば不忠義なおまえに対してはこうやって……」


 エレナの返す言葉が途中で止まる。


 修道士と呼ばれる男からの、嗜め気味な忠言を耳に治めたエレナは、ふと笑顔も失せ、彼に歩みより始めたのである。


「な、なんですかい? 何をなさるんで?」


 尋ねた修道士は、エレナの近づく足取りに目を見開いた。と同時に、ふざけた笑いは霧消してしまう。代わりに頬が強張ってきた。指も震える。


 エレナは、眉尻を吊り上げて、修道士にむかって剣を構えかけた。殺気を隠さぬ顔と共に構えた刀身が、遠く地平からの空の明かりを受けて鈍くきらめく。


「あ、あわわ、エレナさま! や、やめ……」


 男が恐怖にかられて尻餅をつき、後ずさる。刹那。エレナは、視線を自分の背後へと転じた。白刃を水平に振って斬りさく。その回転する動きにしたがい、彼女の長い三つ編みも暴れ馬のごとく揺れる。


 肉を切り裂くいびつな音。エレナは、長剣の先を彼方へ向けたままの残心をとる。


「ぎええええっ!!」


 斬撃の直後、悲鳴が上がる。緑の草地へ鮮血の飛沫が散った。


 この束の間、修道士と呼ばれている男が一連見ていたのは、エレナの背後だった。二人が話している隙に草の中から人影が立ち上がり、握っている剣でエレナの背中を今まさに斬りつけようとしたのである。だが、それはかなわず、女剣士の返り討ちにあってしまった。敵は紙を切り裂く悲鳴をあげて草の上にあっけなく倒れてしまった。


 さっきまで得意気に問答まじりの会話を続けていた男の顔は、やおら冷や汗が吹き出た。


「す、すごい! 今のは驚かされましたぜ。稲妻のようにズバッとまあ、早すぎて剣のさばきが見えなかった! わしの首が飛んでいても気づかないくらいだ。くへえええ、エレナさま、お見事!」


 そして、怯えの混じる感嘆の声をあげた修道士は、エレナの剣さばきを今ここではじめて見たかのように、羨望の眼差しを彼女に向け続けた。


 エレナは、格別、勝利にひたることもない。むしろ斬り倒した敵を、どこか残念そうに見下ろすのみである。


「やれやれ、死んだふりのままでいれば見逃してやったのに……」


「なんで、今、そいつが後ろからあなた様を襲ってきたのが分かったんですかい?」


「おまえの瞳に、背後で立ったこいつの姿が写っていたのだよ」


「本当ですかい? にしても、今のはわざとらしい演技を使い、隙を作ってわざわざ背後へ誘い込んだようにも見えましたが?」


「さあね」


 そっけなく答えたエレナは、膝を折ってしゃがみ込む。枯れ草を一握りすると、また立ち上がり剣についた新たな血糊をそれで拭き取りはじめた。修道士は、彼女の笑いかけたような目を見て首を横にふる。


「喰えないお方だ」


 一言の揶揄と共に修道士は、マントの中から紐の付いたヒョウタンをつかみ出した。尻餅をついた姿勢のままヒョウタンの栓を抜き、中に入っているものを一口飲む。それから袖口で口元をぬぐった。


 エレナは、枯草で剣を磨きながら、まだ肝を冷やしている修道士を一瞥する。


「そんなことより、仕事の手を休めていいのか? 今死んだやつの懐は見ないのか?」


「え? ああ、ではさっそく」


 エレナが赤く汚れた剣を拭いている間に、男は新たに造られた死体へ歩みより、あちこちを探り回す。


「毎度毎度、ふむ、服の中には金目の物はないな。こいつはわしよりもいい袋を肩に下げているな」


 修道士の作業は革袋の中身へと移る。


「あれ? なんだこいつ、こんな物を」


 修道士の手が止まった。剣のきらめきを確かめていたエレナは、このとき不意に上がった男の疑問を呈する声を耳にして振り向いた。


「何か珍しい宝石でも見つけたのか?」


 修道士は金の入った袋をまた見つけて無くすことのないよう脇に置いていた。ところが、注目していたのは別で、新たに見つけた二本の巻いた羊皮紙を手にして、疑問にみいっていたのである。再び手が動きそしてまた袋から一冊の本を見つける。


「いやね、ちょっといい服を着ているから、やはり、こいつしこたま金を持っていたんですけど、それと一緒に二枚の羊皮紙と本を。ただの野盗が大切に持っているなんて」


「それは? 何かの書簡のように見えるが……」


「ちょっと待ってくださいよ。修道院にいたおかげで文字もそこそこ読めますからね。昔は、一時期商人の家で徒弟奉公もやったんです。ローマ数字は算術に向かないもんで算盤も少々と、ああ、盤はここにはありませなんだな。とにかく広げて何が書いてあるのか読みます。ちょっと待っておくんなさい。ほお、やはり俗語で書かれている。ほう、一枚は大陸のブルージュからコッツウォルズへ送られた、羊毛の買い付けを求める指令書です。それと次に、これは写本だな。書いたばかりのようだ、新しいですぜ。中身は、ええっと、算術に関するものだ。あともう一枚の羊皮紙は使い込んである。ほおほお、体裁は公証らしく書いてある。へへへ、エレナさま、見てくださいよ。これは借用書だ。とんでもねえ利息で貸し付けてやがる。こいつ高利貸しですぜ」


 二枚の羊皮紙と一冊の本のうち、修道士は、ややも離れて立つ女剣士にインク文字がこと細かく書き込まれ、手垢に汚れた一枚の羊皮紙を手渡そうと腕を伸ばす。彼女は剣を鞘に納め、腰をおろしている修道士に近づき、羊皮紙を受け取って文字にざっと目を通した。しだいしだい目が笑う。


「それはよかったな。これで借金の取り立てから解放された奴がいたことになる」


 皮肉を口にした彼女は、記されている負債者の名前を一つ一つ眺めてから、借用書を本来の持ち主でもない修道士へ返した。修道士は、またあらためて文字へ視線を流し、その次に斬り倒された元の持ち主をみやる。


「ぬかったな、わしらに手を出さなければ、地道に儲けていたものを。急ぎ働きを企てたようで、バカな奴らだ。死んだらあの世へ金は持っていけねえのによ」


 明け透けなく悪罵をつぶやいた修道士は、借用書と写本、買い付けの指令書をまとめて背中に下げる薄汚れた革の袋にしまう。腰にはさらに小さな頭陀袋も下げている。


 これでその借用書の持ち主との用はなくなった、かといえば、修道士はまた手で探りまわる。彼の表情が再度かわった。


「おや? こいつ贖有状も持っていやがった」


 修道士は手にしたものへ重々しい眼を注ぐ。エレナが一声かけようとした先に、修道士は首を横にふった。


「あばよ」


 そして、無慈悲な別れの挨拶に合わせて、片方の手を使い、胸にまた十字をきる。腕を振り上げた。贖宥状を役にも立たない紙屑と見なしたらしい。かなたに向かって投げ捨てたのである。どこに落ちていくのかも見届けない。すでにその目はエレナに向いている。


「エレナさま、御料林に潜んでいたこいつら、本当に野盗だったんでしょうかね? 鹿を目当てにした密猟者かなあ?」


 尋ねられたエレナの目は、このとき修道士の力強い投げ方に、興味深く凝視していた。たずねてきた声が小さかったものだから聞き逃しかけた。が、急いで修道士の質問を反芻する。


「そいつの服装は一番身なりがいい。武具も金をかけてある。おそらくそいつが頭目だろう。他の者は、ほとんど古着を着ている。全体として貧相な服だ。眼差しの絡み合う閉ざされた狭いヒエラルキーのなかで、喰うか喰われるかで手下は頭目の力による支配に従っただけ。互いの目配せ、手ぶりと振る舞い、発話の内容と音調、立ち位置の取り方などで分かった」


「ほほう、先の斬りあいのとき、エレナさまが一見して無駄にいくつも話しかけて、相手が気分まかせに応じていましたが、それを探るためだったんですかい?」


「そうかも知れぬし、そうでないかも知れない」


「……凄いな……」


 目を白黒させる修道士ではあるが、感嘆の一言は、どことなく覇気のない低さである。その自分の声に合わせたかのように瞠目は顔からすぐに失せた。彼は頭目と思われる横たわる男の身体に目をじっとすえる。影のある見下ろす目と共に頼り無く開いた口、不揃いな歯が見えるのは、聖職者らしい哀愁の表情だろうか。


「やっぱり、毎度毎度、最後に斬られるのは親玉かよ。ともかくエレナさま、それだとこいつらは動物の群れと変わりませんぜ。神様は他の生き物を支配できるようにと人間を賢く造られたんでごぜえやすのに。罪を背負わせもしましたけどね」


「それはどうか。ときに動物は人間より賢く振る舞う」


「そうですかね?」


「例えば、狼は、悪魔や魔女の使い、禍々しい怪物の化身という伝説が村々にある。が、実のところ狼は、生きていく上で必要な食べ物を得るために狩りをするだけであって、同類の仲間との争いを含めて無用な殺生はしない。狩りをするときはルールもある。人間がこしらえた神より、実在する様々な動物から学ぶことは、実に多い」


「そんなもんですかねえ、ローマ教会へのロヤリティがまったくない、神による平和を願う者が聞けば毛を逆撫でられる、実に愉快で不敬なお言葉で、へへへ」


 宗教をぞんざいに説いたエレナへ修道士は、呆れて返した。しかし、エレナは視線を変えて考え込んだ目をつくった。


「ところで、修道士よ。合点のいかぬことがある。そこの若い弓兵。他とは違う志のある面構えだった。とても金品目当てとは思えない。下は農奴の服装だな。ほころんだ灰色のチュニックにズボン、足首を紐で結んだ革製の靴にゲートル。だが上に着けている甲冑は良いものだ。鷹の紋章まで描かれている」


 語気を変えたエレナは気になる一角へ指を指す。さっきまで彼女が血のしたたる剣を持ち、哀れんで見下ろした若い弓兵の亡骸だ。修道士はかしこまった。


「わしも気になったんですよ。そいつ、ちょっと可哀想だったなあ」


 悼んでみせた修道士は、それでいてやはり今までと同じく身を移動させ、弓兵の屍のわきで膝をおる。さきほどエレナが物悲しげに見下ろしていた立ち位置である。修道士は形ばかりの祈りを急いですませてから、持ち物をあらためる。次々と品物が出てきた。


「見てくださいよ。小銭が少々と、ほう、こんなものが。書写板が二枚と鉄筆が一本。子どもが街の学校で読み書きを教わるための道具ですぜ」


 修道士の革袋を背負う背中は、目新しい昆虫か植物を採取しているかのごとくまるまっている。エレナは、その彼のあとに近づいて教師のように立った。


「ふむ、文字を勉強していたらしいな。しかし、農民なら、羊皮紙、インクは高くて、簡単には手に入らないだろうに」


「ああ、印象があります。ほら、エレナさま」


「どれ、見せてくれ」


 男から印象を受け取ったエレナは、その円形の面の中心に刻まれている象徴図形と周辺に描かれた文字をしみじみとして眺める。


「農民が証書を作成するときに使う印象だな。盾にバラの紋章? 名前は、トマス……コリンソン。しかし、使われた形跡はない。真新しい」


「なんで、こいつらと一緒なんですかね? こいつは野盗じゃないんじゃないかなぁ」


「さっき見せてくれた、頭目から奪った借用書を確かめてみろ。名前はないか?」


 エレナから印象を返してもらった修道士は、すぐに背中の革袋からしまったばかりの羊皮紙を一枚取りだし、広げて何が書いてあるか読み込んだ。


「へい、ええっと、コリンソンね。コリンソン、コリンソンと、おや、トマス・コリンソンがいました。でもここに書いてある年齢は三十六歳とあるが、その小僧、十六歳ほどにしか見えませんぜ。まだ返納していませんが、印がありますぜ、次男を一人買い取ると」


「それを見せてみろ」


 エレナは修道士から借用書を受けとり、文面を見つめる。その間、修道士は弓兵のふところを探りつづけ、また二つの羊皮紙をみつけた。修道士はそれを読んで鼻頭と唇がくっつきそうな表情をつくる。


「これはどこにでもありそうな騎士物語ですな。それと、これはまた、驚いた。格式のある書面が一枚。コリンソン家の先祖は騎士だったようで」


 修道士はそれら二枚の羊皮紙も、エレナへ順番に手渡した。エレナは借用書を返す代わりに、一つ一つを受け取って読み、眉間をひそめた。彼女の表情は、このときばかり若齢の女性とは思えない、老学者が図書館で資料を読みとく眼差しに似ていた。書類を渡したり、返してもらい仕舞ったりする修道士もこのときだけは、調べものを忙しく手伝う学士のような振る舞いと顔つきになった。とにかくエレナの目が文章の中で止まったり動いたりする。


「この一枚は、本人宛ではないが、国王が騎士コリンソンを叙任した命令書だな。ラテン語で書いてある。して、もう一つは俗語で書かれた騎士物語か、ふうむ、この隅に物語本文とは違う文章が書かれている。筆跡も違うな」


「なんと、ありやすか?」


「復讐を決して忘れずして、コリンソン家の栄光を絶やさんがために……」


「と、いうと、どういうことなんでしょう?」


 エレナは、まず弓兵の持ち物だった二枚の羊皮紙を修道士に返した。


「すまないが、また、野盗の頭領が持っていた借用書以外の書類を見せてくれ」


 修道士は、急いでブルージュからの指令書を渡す。エレナの視線はなめらかに流れた。


「ううむ、関連はないように見える」


「そうですかい」


「一応、その算術の写本も見てみようか」


「へい、どうぞ」


 迷った顔のエレナへ、修道士は手際よく次に算術の写本を、ブルージュの指令書と取り違いに渡した。写本を開いた彼女の顔に、しばらくして微妙な変化があらわれた。修道士がその表情を逃さない。


「なにか、分かったんですかい?」


「写本と騎士物語に添えられた文章の筆跡は同じだ」


「どういうことですかい? それは頭目の所持品でしたよ」


 答えを請う修道士の前で、エレナは、黙して算術の写本を閉じた。真新しい写本は修道士の手元に戻される。彼女は手のあいた片手で、ほつれた自分の髪の一束を整える。頭の中で考えていることを表すような指の細やかな動きである。返事を待つ修道士のぼんやり開けた口を見つめ返して唇をひらいた。


「つまり、その弓兵は、没落騎士の子孫で今は農奴の次男ということだ。そして父親は借金返済のために、長男ではなく次男一人を売りに出した。しかるに、その騎士コリンソンの子孫は、普遍学校を目指し写本を書くことで資金を稼いでいた。写本は商売にたけた頭目が預かり、方々の街や修道院などで高値をつけて売る。それは、輝かしい過去を取り戻そうとして……というところかな。これは推理ではなく想像を交えた見当の段階だけれども」


 話を聞いた修道士は、剃りあげてある自分の頭頂部を片手で二度三度となでる。


「エレナさまの嗅覚は並外れていますからね。でも、その通りだとすると格別奇異でもなく、ときどき耳にも目にもする込み入った話でございますな。でもこの小僧、自らすすんで馬上のエレナさまへ矢を放ちましたぜ。実に勇まく手慣れた弓矢の扱いだったものだから、そのときは、わしもヒヤッとしましたけど」


「たしかに、朴訥な農民とは言いがたい。色々といわくありげだな。自ら選んでこやつらの企てに身を投じ、抜き差しならぬ役割を引き受けたと見た。先祖の栄光の残照から情熱とわずかな自由を得たかったのかもしれない。しかも、そいつの空を見上げる目を見ろ。絶望はなく熱意の眼差しが色濃く残っている。……その責任を引き受けた結果、矜持と自由をどこかで感じただろうか……」


 考え込んだエレナの姿勢に、修道士も主人に付き従う下僕のごとくそれに習い、膝をかがめた姿勢をとる。そして修道士はエレナと同じ表情で、空を見上げる生命のない、幼げな弓兵の顔を眺める。


「仰向けになって空を見ているその小僧。エレナさまがさっきまで悲しそうに見ていたのを、わしはちょいとしげしげと見ていたんです。いや、私がただそう感じただけですけどね。そのときのエレナ様の背中を見たら感じたんですよ。で、その小僧、たしかに弓矢の扱いがとかくうまかったように見えましたよ。それだけに、エレナ様へ弓を引いたのが運悪かった。思うに、その小僧、いい縁の巡りがあって二年あれば、心がけも変わっていたんじゃないんですかい?」


 修道士は思うところを淡々と話し、エレナから返してもらった戦利品、といってもそれはほとんど書類であるが、その一つ一つを確かめ、革袋へしまっていく。彼にとって特に利益を生み出すこともないと予想されるものだろうけれども、エレナが気に止めたものは、彼自身が取って集めた金品の中に含める心掛けであった。


「たったの二年で人の性根が変わるものか……」


 間をおいて、彼の背後から、エレナの不意な言葉が発した。それは彼に返事をしたというよりは独り言のようであった。そのときもまだ、修道士は革袋の中に納めた戦利品をのぞきこんでいたのである。返事は来ないものと思っていた修道士は、顔をあげて何気にエレナの顔を困ったように見返す。


「というと、どのくらいで?」


「百年かな……」


「そりゃ人間の寿命より長いですぜ」


「ふざけたように聞こえたか? 今の世は成人したら死はすぐやってくる。優れた情報網も物事を見分ける十分な知識なども民衆の生活の中にはなく、教会は、壁画やステンドグラス、聞きざわりの良い言葉による幼稚な手段で単一の物語を説く。過酷な労働の中で死後、天国へ行くという夢を見せてくれるという情報のみ。それらからのmoralisを拠り所とし、さらに自然の理解に乏しいゆえ、……人間の間で培われるものも道理の暗さを避けられない……しかも、他者からのまなざし、承認がなければ生きられない。他有化を乗り越えられず、自由の受難だな」


「それは、誰の言葉ですかい? 宣教でも聞いたことがない。とにかく、厳しいね。……エレナさま、一々厳しいね。まるで悪魔から世の在り方を教わった魔女のようだ。あ、これは誉め言葉ですぜ。他の場所で言いうでもすれば司祭やら領主の耳に入って拷問付きの異端審問、その末に火刑にかけられちまう。でもエレナさまなら、そういう異端狩り、偉そうに平和を口にして暴力を使うやからが大嫌いだから、ことごとく成敗なさりそうですな。わしは一度でもいい、それを拝見したいもんです。へへへ、そう、そうだね。いつも思うのだが、あなた様は特別だよ」


「そうかな?」


「へい、そうですとも。普通、修道女にでもならないかぎり、女には無理がある。あなたのように、どこで勉強したか知らないが、読み書きができて大学で学ぶ知識など身につけることなどできやしない。それに、女に戦いは向かない。エレナ様もその武具を売り払って、金をかけたコットを着こなせば、豪農、いや領主の子女と偽って都市貴族かギルドの有力者に取り入ることができますぜ。そうしなくとも普通に暮らしていれば向こうから婚約の申し出があってもいいくらいの美人なものだし」


「そこで坊主の暗躍か? 主人が無能であればなおのこと策は思いのまま。そして、主人が亡くなったときの相続に一役かうとか?」


「おお、よく分かってらっしゃる。歴史をよくご存知のようで。やっぱりあなた様は特別だ。他の女には真似できない。ブルージュの事で思い出したけど、ベギンたちが、あなた様の男らを無惨に斬り捨てる華麗な勇姿を見たら卒倒するでしょうな。へへへ」


「そうでもないぞ。話を聞くかい? かなり違う時代の、遥かな遠い場所でのお話だよ。たいそう荒唐無稽に聞こえるかもしれないが」


「へええ? 是非とも聞かせてくだせえ」


「夢から生んだ空想かもしれないぞ」


「へへへ、所詮、人生は夢ですよ、エレナさま。この世は悪夢ですぜ」


「世の隅々を渡り、悪夢にうなされてみるか。ここは、もうじき暗くなる。宿を探そう。そこで暖かい食事をとりながら、お話をたっぷり聞かせてやるよ。その次に旅芸人を捕まえて音楽を聴く。あとは、そう、遍歴職人に出会えれば、彼の手に入れた俗語で語る民衆の日常を描いた物語に武勲詩。しかし、聖職者や国王がラテン語で書いたレスプブリカ・クリスティアーナの『世界年代記』とか、ただし、聖オールバンズ修道院で書かれた『大年代記』の一節は笑わせる。とにかく、作為的な偽史文書などは消化に悪い」


「へい、ですがトロメウスの『年代記』はどうですかい? 人民の自治を認めていますが?」


「あれは、プラトンやアリストテレス、キケロの影響はあっても神が主権者となった人民支配を説いているのであって、人民が人民の社会を治めるのとは違う」


「それは、手痛い評価ですね?」


「ところで、その高利貸しの文書も俗語なのだろう?」


「へい」


「その弓兵の持っていた王の命令書も合わせ、あらためて読み解き、世の中の真相を調べてみようではないか。そこにパンと焼いた肉にチーズ、湯気のたつスープがあるといい」


「それはいい、温かい飯が食いたいところでさあ。いい夜になりそうだ。ついでに生娘を抱ければ極楽ですぜ。おっと、入浴もしなけれりゃな」


「修道士は入浴を贅沢な行いとして蔑んでいるのではなかったか?」


「死臭が肌にこびりついてますからね。鼻の中にも。だからたっぷりと香水の利いた生娘のみずみずしい肌に夜通し暖まるには体を清潔にしとかないとね。その最中に垢まみれにもなって嫌われるなんてぞっとしますぜ。食べ物も気を付けないと。昔、仲間にライ麦パンばかり食べていた奴がいましてね。麦角の毒にやられて無惨な姿になりやした。それこそ悪夢だ。これでもわしは繊細なんですぜ」


「そうだったのか? そうは見えないぞ」


「ああエレナ様、それは傷ついたな。綺麗な柔らかい肌の女と、夢心地に一夜を過ごせば、その時だけは天国の夢が見られますからね。ご領主さまのように他人の新婚妻へ初夜権があればと思うときもないことはない。あ、でもエレナ様は別ですぜ。あなた様の悪魔のように冷たい甘美な目が、わしの身体の奥にある内蔵の一つ一つを貫いて温めてくれるんでさあ」


「ふふ、私の肌は血の匂いがしみこんでるぞ。とにかく、体力を使って腹も減った。雨も降りそうな雰囲気だ。では宿へ急ごう」


 るいるいと転がる死体を余所に、修道士と話し込んでしまった女剣士は、人差し指と親指を唇にあて、笛を吹いて馬を呼ぶ。


 離れた場所に黒毛の馬が一頭、背中に鞍をかけた姿で気ままに草をはんでいた。指笛の鋭い音色を耳にしたとたん首をもたげてエレナの方を見つめた。両の耳もパタパタと振るわせる。その次に蹄の音は立てど、嘶くことも首を振ることもなくエレナの元へかけよる。


 牡馬と比べても遜色のない、皮膚の中は筋肉が詰まった四本足の、毛づやは黒く輝く体躯。


 馬は、はにかんで瞼を閉じる。頭をエレナの頬にすりつけてきた。エレナはお返しに頬や鼻頭をなでてやる。


 修道士は、その様子を見てやさぐれた顔を一転して変えた。子どものような目で笑い、鼻で笑う。


「馬は人を見るからな……。エレナさま、あなたの言うのも分かる気がしてきましたぜ。いえ、ちょっとばかりなんですけどね」


 彼の言葉を耳にしたに違いないエレナは、何も答えず鐙に片足をかけ鞍にまたがった。一本のみの長い三つ編みが揺れる。それは、何かを振り払う動作にも見え、しかしその動作の中に重苦しさは微塵もなかった。


「……さてと……」


 エレナは、手綱を握りつつ転がっている死体を見納めのようにながめた。苦い顔を垣間見せた。


「盗賊を相手に、無用な時間をかけてしまった……」


「ここで言うのも変ですが、エレナさま、こいつらの亡骸どうします?」


「坊主のお前が埋葬するのが良いのでは?」


「それは、葬儀屋の務めでございまして、色々と商売として分業しているんでございますよ。縄張りがございます。この近くに墓ほりでもいれば。それに良い棺おけを探さないと」


「およばず、後かたずけは、あいつらがしてくれる」


 頭上たかく、大きな羽根を広げて元気よく羽ばたかせているカラスが数羽。黒い影で旋回し、ゆるやかな弧を描いていた。そのさらに上は重たく巨大な怪物のように垂れ込めた雲。鳴き声をかけ合う数羽にまた一羽が加わる。


「行くぞ、修道士。集めた物を落とすなよ。さらば、草原で永遠に眠るゲスどもよ」


 エレナは修道士に背を向けて手綱をさばいた。


「お、ちょっと! 待っておくんなさいエレナさま。宿賃はわしが持っているんでござんすよ」


 黒馬を緩やかにすすめるが、大人の男性が歩いてついて行けるギリギリの速さである。彼女のあとに着いていく修道士は、長チュニックの下に見える靴を忙しく歩ませる。その歩みを一旦は止めてヒョウタンの飲み物を一口飲んだ。それから腰に下げた頭陀袋を軽く叩いて、親につき従う子どもじみた足取りで馬の尻と女剣士の背中を見ながら後についていく。


 楽しそうな表情で彼はただ、彼女の後をついていくだけだった。そして、残されたのは金銭と書類などを抜き取られ、埃と泥、そして血にまみれた死体のみ。


 やがてその冷たく柔らかい寝床に、森は、潜ませた霧を、白いかけものとしてつつんでくれた。しかし、カラスにつつかれて眠りを妨げられてしまうかもしれない。血で汚れたところも、雨が降れば洗い流してくれることだろう。




─了─

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放浪剣士エレナ 私掠船柊 @violet-planet

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