大阪えびすばし⑥
あけみは戎橋を離れ、二時まで開いているという、カウンターだけのコーヒー専門店に入った。
熱いコーヒーを飲み、冷えた体を温めると、店の人にメモ用紙とペンを借り、富田への気持ちをしたためた。
別れの手紙だ。
出会った時の気持ち、自分を必要だと言ってくれたことへの感謝、二人の生活の回顧、子供のこと等。だが、長々と書き連ねても、今の自分の本心が微塵も現れていないように思えた。
あけみは店員にもう一枚メモ用紙がほしいと声をかけた。すると、店主が気をきかせて、便箋を持ってきてくれた。
あけみは丁寧に礼を言い、その便箋に向かった。そして、たった一行だけ、文字を連ねた。
―命をありがとう。
あけみは、このたった七文字が、現在の心境の全てを語っていると思い、長い間眺めていた。
たった一人で、この右も左もわからないミナミに出てきて、富田に出会えたからこそ、今の自分があるような気がした。
寂しさからであったとしても、今まで不必要だと言われ続けた自分を必要だと言ってくれ、頼りにしてくれた富田。
他人が見れば、情けなく、どうしようもない男だと思うだろう。だが、あけみにとっては、自分に勇気をくれ、自信を持たせてくれ、何より生きようと思わせてくれた存在だったと実感することができた。まさに、あけみに命を吹き込んでくれたのだと。
それに加え、富田は新たな命をも授けてくれた。お胎の中の子供だ。改めて、あけみは富田が何と言おうと、この命を守ると誓った。
死のうとしたことが恥ずかしかった。子供に申し訳なかった。自分は逃げようとしていただけだ。
子供には両親が揃っていることが理想だが、自分ががんばって父親の役目も果たせばいい。
「!」
そこまで考え、あけみは富田にも幼い頃から両親がいなかったことを思い出した。
いや違う。
富田は捨てられたのだ。
あけみは、ハッとした。富田が頑なに子供を堕ろせと言った理由がわかったような気がしたのだ。
富田は自信がないのだ。
親に捨てられたという過去を持つ自分のような人間が、果たして人の親になれるのだろうかという不安にとらわれているのだ。自分も子供を捨ててしまうのではないかという恐怖に見舞われているのだ。
あけみは思った。
このまま富田と別れてしまったら、富田は一生、親に捨てられた過去から逃れられず、その時の不安や恐怖、寂しさを引きずったまま生きていかなければならないと。
そして、富田が過去の呪縛を解き放つには、自分とこの子が必要だと。そして私とこの子にとっても富田は必要な存在だと。
あけみは店を飛び出した。
アパートへ行きかけ、引き返した。戎橋へ向かう。
戎橋で待とうと思ったのだ。
この七年間、客を待っていたその場所で、富田を待とうと思ったのだ。客ではない一人の男を。
いや、待つのではない。もう一度出会うのだ。そして、前回のような、互いへの同情から関係を始めるのではなく、必要とする者同士が、自然に惹かれあって、関係を作っていくのだ。
あけみは歩いた。
ネオンの中を泳いだ。
戎橋が見えてきた。
いつの間にか、あけみに敵意の視線を送っていた少女たちの姿はなくなっていた。ネオンの数も少なくなり、便箋の七つの文字も見づらくなっている。ただ朝を待つだけの戎橋は、寂しさと侘しさに包まれていた。
ふと、ひとりでこのミナミに出てきた時のことを思い出していた。あの時と同じ光景が目の前に広がっている。あの時は、本当に孤独だった。そして、あまりの寂しさに、ネオンを求め、「ともしび」に駆け込んだのだった。
でも、今はあの時とは違う。
もう、ひとりぼっちじゃない。この子がいる。そして富田がいる。それぞれがそれぞれを必要としている三つの命がある。
あけみは、橋の下をあまりにゆっくり流れる川を見つめた。それはもどかしいくらいに緩慢な動きだった。澱んだ緑に、今はもう何も感じない。
ただ、確かに川は生きていた。呼吸をしていた。それを強く感じた。
そうだ。ネオンが消えた戎橋のように、華やかでなくてもいい。この道頓堀川のように、ゆっくりでもいい。とにかく三人で着実に歩いていけばいいのだ。歩けば必ず道はできる。生きていれば何かがある……。
あけみは便箋を折りたたみ、お胎の子と共に抱きしめた。
富田はきっと来る、そう思った。
いや、確信していた。
足元に古新聞が纏わりつく。自殺者の記事が目に飛び込んできた。あの男を思い出す。あの男にも感謝しなければならない。
古新聞が風に舞い、飛んでいく。
この橋の上を、富田と子供と、三人で歩いていく姿が瞼に浮かんだ。
不意に涙が溢れてきた。
あけみは涙を拭った。富田をすぐに見つけられるように。
そして、富田と笑顔で出会うために。
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