大阪えびすばし⑤

 あけみはあてもなく歩いた。そして、気づけば戎橋まで来ていた。すると無性に富田と出会った「ともしび」へ行きたくなった。オーナーとは顔を合わせたくはなかったが、「ともしび」になぜか行ってみたくなったのだ。

 あけみは歩いた。

 だが、それを見つけられないまま、堺筋に出てしまった。来た道を引き返したが見つけられなかった。あけみは不安に襲われた。それは、なぜか幼い頃、両親を失くした時に感じた不安に似ていた。その不安を体から脱ぎ捨てようとするかのようにあけみは道頓堀を歩き続けた。

 結局、「ともしび」は見つけられなかった。いや、かつてそれがあったであろう場所を見つけることはできた。その場所には、若い人向けのファッションや雑貨の店、携帯電話ショップ、カラオケボックスなどが入るビルが建っていた。

 あけみは時の流れを感じずにはいられなかった。富田と出会ってから、もう八年以上も経っているのだ。キャバレーのような大型の喫茶店が、レジャーやファッションの発信地に姿を変えるのも必然かもしれない。

 だが、「ともしび」がなくなったことが、自分と富田の間の灯りを消してしまったような気がし、富田との別れを予感させた。そして、富田がどうしても子供を堕ろせと言うのなら、訣別も致し方ないと考え、それを決意した。

 あけみは戎橋へ向かった。

 欄干にもたれる。

 楽しそうに笑う若者。

 大声で何かを叫んでいるサラリーマン。

 ビラ撒きの黒服。

 そしてナンパ待ちの少女。

 みんなそれぞれ色々あるのだろうが、幸せなのだろう。少なくとも、生きているというエネルギーを感じる。

 それに引きかえ……。

 あけみは、言いようのない不安感、孤独感に見舞われた。

 幼い頃からずっと引きずってきた孤独、寂しさ……。

 そのトラウマとも言うべき感情に包まれたあけみは、恐怖心すら覚えた。

 怖い……。

 あけみを勇気づけるように、新しい命が宿っているのは確かだ。でも、この子は生まれてきて本当に幸せなのだろうかという疑問が湧いてきているのも事実だ。

 富田やあけみのように、心に深い傷を負う人生を歩むことになるのではないかと思ってしまう。

 あけみ以上の孤独、寂しさを背負う人生を歩むことになるかもしれない。

 それならいっそ……。

 道頓堀川の川面を見つめる。ネオンが泳いでいるようで、一瞬キレイに見えるが、その下には深緑色の澱みが広がっている。底なし沼のようで、以前は怖ささえ覚えたものだが、今はその澱みがなぜか懐かしく思えた。理由はわからない。わからないが、澱みに吸い込まれたい、澱みはこの孤独を癒してくれる、そう思った。

 欄干から体を乗り出す。

 飛び込もうか、そう思った時だった。

 肩を強い力で掴まれた。

「!」

 ホームレスの男が立っていた。

 咄嗟に手を払う。

「!」

 やけに冷たい手だった。

 男は手を払われたことに気分を害した様子はなく、湖のような目であけみを見てくる。

 髪はボサボサ、顔は薄汚れ、全身をナイロンのロングコートで覆っている。そしてサンダル履き。だが、目だけは澄んでいて、思わず引き込まれそうだ。

「大阪に来るのは二回目だけど、ここははじめてだ。これが有名なひっかけ橋だろう? すぐにわかったよ」

 ひどいガラガラ声。完全に喉が潰れているようだった。

 男はもの珍しそうに、あたりを見まわしていたかと思うと、あけみに向き直り、言った。

「自殺はダメだ」

「……」

「それにこの川は、タイガースが優勝した時に飛び込む川だろう? 飛び込むにはまだ早すぎるんじゃないか?」

「……」

「今年は最下位を独走しているようだし……」

「……」

 男のジョークに笑えず、男の顔をじっと見ていると、男は真剣な口調で言った。

「そんなに自分で自分を苛めることはないだろう。それでなくても、世間が苛めてくる。違うか?」

「!」

「自殺者はな……成仏できないんだ」

「……」

「経験者は語る、というやつだよ」

「……」

「俺は死人でね……自殺経験者だよ……確実に死んだんだけど、でも、天界に行くことができなくてね……成仏させてもらえず、天界の入口とこの世を彷徨っているんだ」

「そんな話……」

「信じる信じないはあんたの勝手だけどな、でも、事実だ」

「……」

 通行人たちが怪訝な顔であけみを見ていく。どうやら、男はあけみにしか見えていないようだ。

「死んでも成仏できない苦しさは、生きている時のそれの何倍もの苦しさだ」

「……」

「生きていれば、嫌なこともあるし、つらいこともある。でも、嬉しいこともある。生きていれば色々ある、でも、死ねば何もない」

「……」

「おまけに成仏できなければ、あの世の家族にも会えない」

「……」

「あんたには新しい命が宿っているんだろう?」

「……どうしてそれを?」

「死人だからな、何でも知っている」

「……」

「子供がいるのに……生きていれば子供に会えるのに……死ぬのはもったいない」

「……あなたにも子供がいたのですか?」

 男が寂しそうに頷いた。

 あけみは、男の話を信じてもいいと思い始めていた。

 多分、男は、妻や子供に先立たれ、あとを追ったのだろう。自殺という方法で命を絶ち、あの世で家族に会おうと思った。だが、自殺を試みたものの、自殺では成仏できず、この世とあの世との間を彷徨っている……そういうことなのかもしれない。

 男が言う。

「自殺はやめとけ」

「……はい」

 素直に頷いていた。

 男がスッと消えた。

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