大阪えびすばし④
やがて、ついに借金を完済することができたあけみは、その報告のため、急いでアパートへ向かった。もうひとつの報告を胸に。もちろん妊娠の件だ。借金完済とともに、その報告をすることを、あけみは決めていた。
足取りはとても軽かった。ダブルの報告に、富田は喜んでくれると思ったからだ。
富田はいつものように、あけみがドアを開けるやいなや玄関までやって来て、まだ靴を脱がないあけみの足元にじゃれついてきた。それを何とかほどき、畳に上がったあけみは、抱きついてくる富田に借金がなくなったことを告げた。
富田は涙を流して喜んだ。そして、あけみに頭を下げ、感謝の言葉を並べた。富田は額を畳にこすりつけ、いつまでも礼を言っていた。
あけみは富田の体を起こし、涙を拭ってやった。出会った頃より頬がこけ、無精髭が顔の下半分を覆った富田は、より貧相になっていたが、あけみは今がどん底で、これより下はないと自分に言い聞かせた。
富田はされるがままになっていたが、やがて口を開いた。
「やっと、始めることができる。俺ら二人の、いや、誰にも邪魔されへん二人だけの生活を始めることができるんや」
そう言って、やっと乾いた頬を、再び涙で濡らすのだった。
あけみも涙が溢れてくるのを止めることができなかった。二人はしばらくの間、強く抱きしめ合っていた。
やがて、富田があけみの服のボタンに手をかけたので、あけみはやんわりそれを制し、もうひとつの報告を始めた。
「子供ができてん。三ヶ月やって言われた」
あけみは母子手帳をハンドバッグから取り出し、富田の顔の前に掲げた。
富田は茫然とした表情で、それをじっと見つめていた。あけみはその反応に戸惑いながらも、もう一度、はしゃいだ声で言った。
「なあ、聞いてる? 妊娠してんで。私ら二人の子供が生まれるんやで!」
その声の後半部分は、富田の怒声で掻き消された。
「俺らの子やとぉ! そんなもん誰の子かわかったもんやない。堕ろせ! 明日堕ろしてこい!」
そう言うや、物凄い形相で母子手帳を引ったくり、畳に叩きつけた。
富田の言葉に驚きながらも、あけみは必死で言い返した。
「嫌や! この子はあんたの子や! あんたの子やから産む!」
「あかん。そんなん、誰の子かわからん。堕ろせ」
「何言ってんの! 私はあんたとしかしてへん!」
「嘘つけ! そんなもん信用できるか!」
「ほんまや! お客さんとは本番はしてないんや!」
「信じられるか!」
しばらく水掛け論のような言い合いが続いた。
そんな中、あけみはなぜこれほどまでに、富田が子供を堕ろせと言うのかわからなかった。口では誰の子供かわからないと言っているが、実際は自分の子供だと気づいているはずだ。それなのに堕ろせと言う。
子供が嫌いなのかと訊くと、そうじゃないと言う。富田がこだわる、二人だけの生活を邪魔する者が出現するのが許せないのかと問うと、それも理由のひとつだと答えた。
だが、今までとは異なり、自分たちの子供が二人の生活を邪魔するというのはおかしいのではないかと言うと、黙りこんでしまった。
男と女では子供に対する感情は微妙に違うのだろう。違っていて当然だ。だが、邪魔すると思う感情はどういったものだろう。
あけみは、今度こそ富田という人間が本当にわからなくなり、口を噤んだ。
富田もじっと黙っていたが、やがて顔をしかめながら口を開いた。
「実はお前にはもうちょっと稼いでもらおうと思ってな。組に相談したんや。借金がなくなっても、それまでと同じように、組の傘の下で立ちんぼさしてくれへんかって。組はすぐにオーケーしてくれた。見返りとして、俺を組員にしてくれるらしい」
すぐに嘘だとわかった。
「もうすぐ組の若い衆がお前を迎えに来る」
明らかに、富田の泳ぐ目が嘘だと語っていた。だが、あけみは騙されたふりで言った。
「あんたが望むんやったら、何でもする。せやけど、この子だけは産ませて」
「あほか! 妊婦や、一回でもガキ産んだモンなんか値打ちないんじゃ。とにかく堕ろせ! 堕ろすのが嫌やったら、今すぐ出て行け!」
「……」
あけみが黙って動かずにいると、富田は再び出て行けと叫び、あけみの長い髪を?んだ。
「早よ出て行け。奴らが来るぞ。あいつら来たら連れて行かれて流産させられるぞ! ガキを堕ろしたくないんやったら、ここを出て行け! 俺の前から消えろ!」
あけみは、微動だにしなかった。
富田はそんなあけみに苛立ち、髪を引っ張り、畳の上を引きずり回した。それでもあけみは声ひとつ上げず、出て行こうとしなかった。富田の本心ではないことがわかっていたからだ。
富田は堪忍袋の緒が切れたような表情で叫ぶように言った。
「何やねん、一体! 堕ろすのも嫌、出て行くのも嫌。どないしたいんや!」
「あんたと、この子と三人で暮らしたいだけなんや!」
心からそう思っていた。家庭に恵まれなかったからこそ、家庭を築きたいという想いがあけみにはあったのだ。
「まだ、わからんのか! そんなもん無理なんじゃ」
そう言うや、富田は再びあけみの髪を?み、立たせた。そして、ええ加減にせえよと言うや、あけみの顔を平手で叩いた。
乾いた音を耳にすると共に、あけみははじめて顔を殴られたと思った。いや、そんなことより、以前のように腹を殴ったり、蹴ったりしなかったことに、富田のやさしさを感じた。富田は、子供を守ろうとしたのだ。
しかし、「出て行け。これでわかったやろ。俺はお前が邪魔になった。お前なんか必要ないんや」という言葉を聞いた時、あけみは心が冷たくなった。
決して富田の本心ではないとわかっていても、あけみはその「邪魔」「必要ない」という言葉に、昔を思い出してしまった。子供の頃、親戚たちに言われ続けた記憶が甦ってきた。気づけば玄関口までトボトボ歩いていた。
「早よ行け! 組の若い衆が来るぞ」
ああ、冨田はまだ嘘を言っていると思いながら、あけみは、今はとにかく一旦一人になった方がいいと考え、部屋を出た。
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