第8章 大阪えびすばし①

 あけみは、大阪一賑やかで、人通りの多い道頓堀戎橋の上に佇んでいた。

 真冬の、それも最終電車が出た後の一番寒い時間帯だというのに、橋の上にはまだ十代と思しき少女たちが、男に声を掛けられるのをじっと待っているのか、あるいはただ単に時間を潰しているだけなのか、欄干にもたれて佇んだり、地面にしゃがみこんだりしている。

 二十代後半のあけみは、明らかに周囲から浮いていて、時折少女たちから、蔑むような、敵意のこもったような目を向けられていた。「立ちんぼのおばさん」と揶揄する声も聞こえてきた。

 しかし、あけみはそんな視線を何とも思わず、じっとその場を動かずにいた。

 少し前までのあけみなら、そんな視線に対して、「私はあんたらみたいに遊んでるわけとちゃうんや。仕事や。生きるためにここに立ってるんや」と、反対に嫌悪の目を少女たちに向けたかもしれない。

 だが、今やあけみは、仕事でも商売でも、ましてや男から声をかけられるために、別名「ひっかけ橋」と呼ばれるこの戎橋に立っているわけではなかった。だからどんな目も気にならず、ついさっきしたためたばかりの手紙を握り締め、まるで思い出に浸るように時折目を閉じ、ひとり静かに佇んでいるのだった。


 幼い頃、交通事故で両親を亡くしたあけみは、親戚中をたらい回しにされた。和歌山の橋本、御坊、大阪の堺、住吉、泉南といった具合に。そして、どこへ行ってもあけみは邪魔者扱いされた。時にはあからさまに「この子は本当に厄介者だよ。出て行ってくれないかねえ」と言う叔父や叔母もいた。

 当時はどの家も貧しかったため、食い扶持が一人増えるだけで家計が逼迫するのはあけみにもわかっていた。だから、親戚をちょうど二回りした時に、あけみは独立することにした。十八の時だった。

 そして、それまでの、あまりにみじめな生活で渇いた心が本能的に華やかさを求めたのか、あけみは大阪の中心であるミナミに出てきたのだった。

 生まれてはじめてのミナミは、あけみに華やかさよりも圧迫感を与えた。とにかくネオンの数に驚き、人の多さに圧倒された。夜というのに、昼間よりも明るく、賑やかな街に戸惑った。

 しかし思い切ってその中に体を滑り込ませると、あけみは自分自身も華やかになったような気になり、それがまた嬉しく、他の同年代の少女たちと同じように戎橋の欄干にもたれるのだった。

 だが、あけみは、他の少女たちのように、男たちに声をかけられたり、テイクアウトされることはなかった。まだミナミに出てきたばかりのあけみは、やはりどこか垢抜けないものを体から発していたのだろう。

 元々、ナンパされるのが目的ではなかったため、あけみはさほどショックを覚えなかったが、夜が明けていくにつれ、人の姿がまばらになり、ネオンも色褪せてくると、寂しさと侘しさに包まれていく戎橋とミナミの街並みに心を締め付けられるような思いにとらわれた。

 それは、前日までの境遇を連想させた。

 自然とあけみは灯りを求め、唯一開いていた、道頓堀の二十四時間営業の喫茶店に入った。そして一杯のコーヒーで、朝まで粘った。

 会計を済ませると、財布は空になった。無一文になったあけみは、店を出るやいなや、店内に引き返していた。そして、店長らしき男に働かせてくれと直談判していた。それは今までにない積極性であった。衝動的ですらあった。一人で生きていくしかないという想いがそうさせたのだろう。

 店長は初老のオーナーに相談した結果、比較的手が足りない深夜なら雇うことができると言った。

 もちろんあけみに異存はなかった。さらに嬉しいことに、事情を知ったオーナーは、あけみに日本橋にあるアパートの一室を提供してくれた。

 あけみの、大阪ミナミでの生活の始まりだった。

  

 あけみは、ウールのコートの前を合わせ、お胎を守るようにしながら、書いたばかりの手紙を開いた。

 道頓堀のネオンが便箋を照らしてくれる。あけみは約十年もの間親しんだそのネオンに、今さらながら、やさしさと温かさを感じずにはいられなかった。

 そして、手紙の冒頭に書いた、相手の男の名前を見たあけみは、今までのことが脳裏を駆けるのを止めることができなかった。

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