老兵③

 源じいは生き続けた。

 自分を受け容れてくれた長屋の人間に感謝しながら、彼らを見守るように、長屋に居座り続けた。時に下品な言葉で、時に乱暴な言葉で、でも、温かみのある、心のある言葉でコミュニケーションを取り続けた。

 そんなある日、事件が起きた。

 秋の昼下がり、夏でも涼しい長屋の路地で、いつものように源じいは酒を飲み、歌を歌っていた。と、悲鳴が聞こえてきた。この長屋に住む少女のものだとすぐにわかった。悲鳴を上げながら少女が表通りから長屋の奥に逃げてくる。何事かと、住人たちが玄関から飛び出してくる。

「!」

 逃げ込んでくる少女をアメリカ人らしき大男が追ってきた。真っ黒な体は筋骨隆々だ。その目は血走り、欲望に燃えていた。少女を襲おうとしているのは明らかだった。

 最近、このあたりには不法滞在する外国人の姿がよく目につくようになっていた。

 昼間ということもあり、男手は皆無だった。しかし女たちは逃げてくる少女を囲むようにし、男から遮るようにしている。そんな中、少女の母親が男に向かって行った。だが、男は母親を殴り飛ばし、女たちを蹴散らし始めた。

 源じいは立ち上がった。

「待てや、アメ公!」

 男の動きが止まり、振り返る。だが、視線の先にワンカップを手にした源じいが立っているのを見た男は、すぐに興味を失ったように目を逸らした。源じいは、酒で鼻の頭まで真っ赤にし、目をだらしなく垂れさせ、足元をフラフラさせていたからだ。

 今、この長屋唯一の男手の登場に女たちは一瞬期待したが、それが源じいだとわかると、目に失望の色が広がった。

 男は、女たちの頭の上から少女に手を伸ばそうとした。と、そのスキンヘッドにワンカップの空瓶が当たった。源じいが投げたものだ。男の動きが止まり、再び源じいに向き直る。

「どうせアメリカ産の馬鹿な薬でもやってるんやろう! このアホが!」 

「サノバビッチ!」

 そう言ったかと思うと、男が物凄い勢いで源じいに向かって駆けてきた。

 源じいの垂れた目が吊り上がる。鼻だけでなく顔全体を真っ赤にし、足元をしっかり地につけ、身構えていた。

 女たちは、源じいが凛々しく、雄雄しく、そして若々しく見えた。いい表情に見えた。そしてそれは、恐怖に打ち勝とうとしているようにも見えた。

 実際、源じいは怖かった。恐ろしかった。でも自分に言い聞かせていた。「逃げるな、逃げるな。今度逃げたら、もう死ねないぞ」と。

 黒人の大男がアメフトのタックルよろしく源じいを吹っ飛ばす。源じいは路地の端まで飛んでいった。女たちが悲鳴を上げ、目を閉じる。

 だが、源じいは立ち上がった。

「逃げんかったぞ、ワシは逃げんかったぞ。太吉、ワシは逃げんかったぞ、これでやっとおまえの所へ行ける」

 立ち上がった源じいを見て、男が驚いた顔をする。女たちは動けずにじっと源じいを見ていた。止めたくても止めてはいけない何かがそこにはあったのだ。それでもその中の一人が警察へ通報しに行く。

 源じいは驚いた顔の黒人を見やりながら、

「コラ、アメ公! 何びっくりした顔しとるんや、このハゲ! て、ワシもハゲか。まあそんなことはどうでもええ、さあ、殺し合いやったら五分と五分やぞ、覚悟してこいよ。ワシはもうとっくに覚悟できてるんや。ずっと死に場所さがしとったんや、今までずっとな!」

「……」

「太吉、今から仇、討ったるぞ!」

 自分に言い聞かせるように言った。日本語が理解できないらしい黒人は、それでも源じいの得体の知れない迫力に呑まれたようで、動けずにいた。

 実際、源じいが立っていることすら奇跡だった。

 肋骨は折れ、そして折れた肋骨が肺や膵臓に突き刺さっていた。立っているだけでも驚きなのに、源じいは物凄い迫力で迫ってくる。さすがの黒人も震えていた。

 源じいと黒人が向かい合う。その身長差約五十センチ。体の厚みの差約三十センチ。だが、源じいの方が圧していた。黒人は呑まれていた。死を覚悟した源じいの迫力には勝てなかった。

 しかし、追い詰められた黒人は、何やらわけのわからない言葉で叫びながら源じいに殴りかかってきた。

 だが、源じいはそれをしゃがんでかわした。実際は肋骨が痛んでしゃがまずにはいられなかっただけなのだが……。

 丸太のような腕が頭上を通過し、黒人が体勢を崩した瞬間、普段の源じいからは想像もつかない身軽さで黒人の背中に飛びついた。そして首に腕をまわし、耳に噛みつく。

「ギャアー」

 叫び声は万国共通なのかと思いながら、源じいは尚も噛み続けた。黒人は暴れながら何とか源じいを振り落とそうとするが、耳が痛いために、あまり乱暴な動きもできず、その場に座りこんでしまった。

 やがて通報を受けた警官がやって来た。源じいは耳から口を離し、黒人から離れた。そのまま倒れ込む。救急車を呼ぼうとする警官を制し、口を開いた。

「心配せんでももう死ぬから、大丈夫や。って、意味わからんな。まあええ、実はワシ、脱走兵でな。戦場が怖くて、死ぬのが怖くて、アメリカ兵が恐ろしくて、逃げ出したんや。仲間の太吉を置いてな。敵弾に当たって死んだ太吉をほったらかしてな。せやけどワシは生き残ってしもた。死ぬのが怖くて逃げ出し、何とか生き残ったのに、実際生き残ってみると、それが逆に辛かった。戦争で死ぬことよりも生きることの方が辛かった。脱走兵ということがバレていて、皆に白い目で見られているような気がしてな、生き地獄やった。だから常に死に場所を探してた。でもそれを見つけられず、あれから何十年と生きてきてしもた。生き恥晒しながらな」

 警官たちも、長屋の住人たちも皆黙ったまま源じいの話に聞き入っている。中には涙を流している者もいた。

「どこにも居場所がないような気がした。でもこの長屋横丁だけは違った。温かかった。だからここで死にたいと思った。そこへ都合よくアメ公が紛れ込んで来てくれた。恩返しするのは今やと思った。同時に死ぬのも今やと。天がくれた最初で最後のチャンスやと思った。だからワシは逃げずにアメ公に向かっていけた。結果、こうして死ぬことができる。天のおかげや。天国の太吉のおかげや」

 みんな泣いていた。

「そしてあの男のおかげや」

 小さく呟く。

 それが源じいの最期の言葉だった。

 源じいの死を、長屋の人たちの偲ぶ涙が包んでいた。

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