老兵②

「自殺……いや、自害はやめましょう」

 やけにガラガラした声だった。

「あんたは? 見かけん顔やが……」

 源じいは、ナイフを古新聞の上に戻した。

「俺は死人です」

「……やっぱりな」

「ほう」

「ん?」

「いや、そんな反応をされたのははじめてですからね」

「……そうか……まあ、長い間生きていれば、驚くことも少なくなるし、死んだ人間がこの世をウロウロしていても不思議じゃないと思える。それに、あんたはどこか生きている感じがせん」

 男は黙って苦笑した。

「太吉は元気にやっとるか?」

「……さあ……俺は成仏できていないので……太吉さんにはお会いしたことがありません」

「そうか……大変なんやな、あっちの世界も」

「ええ。色々と掟があって……」

 男は寂しそうに笑った。

 源じいもつられて笑う。

「聞かせてくれるか、冥土の土産に……」

「はあ……」

「たのむ」

「冥土の土産になるかどうかはわかりませんが……話してみますか」

「ありがとう」

「こんなこと、話すのははじめてなんですが……なぜか聞いてほしくなりました」

 源じいは頷いた。

「俺には妻と五歳の息子がいました。息子は三つくらいまでは元気だったのですが、四歳になる少し前に心臓に病があることが発覚しましてね」

「……」

「成長とともに心臓も大きくなるのですが、息子の場合、心臓の成長に血管のそれがついていかない病気でして……つまり、血の流れが悪くなるんです。でも、心臓はその大きさ通りの動きをする。大きくポンピングを繰り返すんですね。すると、細い血管に無理に血液が流れることになりますから、血管に負担がかかる」

「年数が経つと、血管が傷つき、破れる怖れが出てくる」

「そういうことです。治療法は……移植しかありませんでした。でも、日本では移植は認められていない。だから海外に活路を見い出そうとしたんですが、莫大な金がかかる。俺たち夫婦は金策に走りまわりました。募金活動や寄附してくれる人を探しました。借金もしました。銀行はもちろん、貸してくれる人すべてから借りました。でも追いつかない。仕方なく、会社を辞め、僅かな退職金をそれに充てました。それでもまだ足りない。妻と二人で募金活動をする傍ら、工場で働きました。家も売りました。そして、ようやく目標額に到達したのです」

「……」

「お金をブローカーに持っていくと、ドナーが見つかったと言います。俺たちは大喜びで、渡航の準備を始めました。そして、詳しい打ち合わせをしようと、そのブローカーの事務所へ行くと……もぬけのからでした」

「ひどい話だな」

「もちろん警察に届けましたが、犯人は捕まりませんでした」

「……」

「担当医も、犯行に関与していた疑いがあったのですが、それも証拠不十分で……」

「……」

「何もかも失くした俺たちは、息子が弱っていくのを、手をこまねいて見ているしかありませんでした。やがて、看病に疲れた妻が倒れました。そして息子もついに力尽き……息子を看取ると同時に、妻も息を引き取りました……」

「……」

「二人の葬式も出せず、二人は荼毘にふされました。情けなかった。そんな一文無しの俺の所にも、もちろん借金取りは来ます。でも、俺には返す金も、働く気力もありませんでした」

「……」

「今なら……すべて逃げだったとわかるのですが、あの頃の俺には、二人の所へ行くことしか頭になかった」

「……」

「俺は自殺を決意しました。俺の生命保険は解約していなかったので、俺が死ねば借金は清算できるという気持ちもありました。ただ、それよりも妻と息子に会いたかった」

「……」

「俺は抗議の意味も込め、主のいなくなったブローカーの事務所に行きました。やけに寒い夜でした。今から死ぬのに、俺はストーブをつけました。無意識の行為だったのでしょう。俺は椅子に乗り、持参したロープを天井の桟に掛け、俺の首に括りつけました。そして椅子を蹴り、自殺を決行しました。予想していたより、ロープが首に食い込みましたが、なかなか死ねませんでした。仕方なく、俺は天井にぶら下がったまま、ストーブを蹴倒しました」

「……」

「何もかも消し去りたかったのかもしれません……」

「……それで、あんたの声はそんなガラガラ声に……それに、全身の黒さは……焼けたからか……」

「ええ。このコートとサンダルは、自殺した夜に身に着けていたものです」

「……それで、今、なぜここに?」

「取り締まりをさせられているのです」

「取り締まり?」

「ええ……自殺ということで、成仏させてもらえず、天界の入口とこの世を彷徨い、自殺志願者を翻意させる役目を担わされているのです。天界では、自殺は最悪の犯罪とされ、自らの運命を捻じ曲げたということで、厳しい罰則を与えられるのです」

「そうか……なるほどな……自殺は最悪の犯罪か……そうかもしれん」

「……」

「わかった。あんたの言葉を信じるよ」

「……はい」

「でも、ワシはもう死にたい。死んで罪を償いたい」

「……死ねば償えるのでしょうか?」

「えっ?」

「俺はそうは思いません。自殺した俺が言うのも何ですが……いや、自殺経験者だからこそ言えるのですが……自ら命を絶つことは、決して罪を償うことにはならないと思います。それは逃げでしかありません。それに……自殺者は成仏できません」

「……成仏できないのは構わない。それこそがワシに与えられた罰のような気もするしな」

「……」

 男が複雑な表情になる。

「あんた、ワシが自殺すれば何か困ることでもあるのか?」

 男は複雑な表情のまま答えた。

「実は……担当になった自殺志願者を翻意させられずに、自殺を決行させた場合、俺は永遠に成仏できなくなるのです。一度だけ救済措置があるのですが、そのカードはもう切ってしまったので……あなたが自殺すれば、俺はもう永遠に成仏できず、したがって、天界の妻と息子に会えないのです」

「……そうか……それは可哀想だな……」

「……」

「わかった……いや、別にあんたが可哀想だからじゃなく、あんたがさっき言った、自ら命を絶つことは罪の償いにはならないという言葉……ワシもその通りだと思えてきてな……」

「そうです。自殺はダメです。生きてください。生きて、ひと花もふた花も咲かせてください」

「……ありがとうよ」

 源じいは、笑顔でナイフを古新聞でくるみ始めた。と、ある記事に目が行く。

「ん? この自殺の記事……これはあんたのことか?」

 男は小さく頷いた。

「会えるといいな、奥さんと息子さんに」

 男は再び頷き、そしてスッと消えた。

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