第7章 老兵①


 源じいはどうしようもない爺さんだった。いつも酒に酔い、顔を真っ赤にさせ、それでも口だけは達者で、毎日毎日、ほぼ一日中、長屋通りの路地の一角に陣取り、道行く人をからかったり、わけのわからない歌を歌ったり、眠ったりしていた。

 八十をとうに超えていたが、誰も本当の歳を知らなかった。

 近所の人たちは、身寄りのいない源じいが寂しさから人をからかったり酒を飲んだりしているのだと思い、からかわれても、道端で酒に酔って眠っていても、誰も源じいを邪険には扱わなかった。

 それどころか、まるで地蔵さんに供えるように、源じいに酒や肴、おにぎりや饅頭などを「献上」していた。その時ばかりは源じいは殊勝な顔でお礼を言い、住民たちに感謝するのだが、すぐにそれを忘れ、皆をからかったり、絡んだりするのだった。

 ただ、からかうといっても、源じいのそれは、「顔の色艶悪いぞ。旦那に抱いてもらってないな。夫婦円満が一番だぞ!」とか「どうした? そんな死にそうな顔して、死ぬ前に一旗あげろよ」とか「お前、最近家に帰ってないらしいな? 父ちゃん、母ちゃんはお前が死んだと思って葬式あげてたぞ。『俺は生きてるぞ』って叫びながら家帰れ、このプチ家出野郎が」など、口は悪いが、どれも愛情に満ちていて、この長屋に住む人たちのことをよく観察し、見守っているような内容のものばかりだった。それだからこそ、皆、源じいを憎めずにいたのだ。

 いつの間にか、この長屋に住みつくようになった源じいだったが、今ではすっかり住民たちに受け容れられていた。

 ただ、誰も源じいの素性は知らなかった。たまに源じいに誘われ、一緒に酒を飲む者がいるのだが、彼がその席で源じいの過去を訊こうと試みても、源じいは決してそれを語らなかった。どれだけ酔っていてもそれは変わらなかった。だから誰も源じいの過去は知らなかった。

 ただ、いつも口ずさんでいる歌が軍歌であることに、歳を取った者は気づいていたし、八月が近づくと、元気がなくなることも知っていた。


 源じいは脱走兵だった。

 戦地で、さっきまで隣で話をしていた仲間の頭が吹っ飛ばされるのを目の当たりにした源じいは、恐怖心が募り、ついには逃げ出してしまったのだった。

 深い森の中で、戦争が終わるのを、息を潜め、待ち続けた。

 やがて戦争は終わったが、生き残った方が地獄だということに気づいた。誰もが自分を脱走兵だと知っているように思え、どこにも居場所がないような気がし、全国を渡り歩いた。

 そして、長い年月をかけ、この長屋に辿り着いたのだった。

 源じいは毎年、終戦記念日になると、仲間の元へ行きたくなる。死にたくなるのだ。

 だが、いつも死にきれなかった。

 仲間の元へ行きたいと思う反面、この長屋の温かい人たちと別れたくないとも思うのだった。

 そして、今年も八月十五日がやってきた。

 源じいは炎天下の中、長屋の奥にある小高い丘を登っていった。いつも星空を眺める場所だ。天気の良い日は、ここで眠ることもあった。

 源じいは丘に腰を下ろすと、布団代わりにしている古いセーターを掻き分け、中から古新聞にくるまれた包みを取り出した。

 毎年恒例となっている儀式だ。

 ゆっくりと新聞紙を剥がしていく。

 中から現れたのは、古いアーミーナイフだった。

 実際に戦争で使っていたものだ。昔のナイフは、保存状態さえ良ければ錆びない。源じいの手の中のナイフも、真夏の太陽を見事に反射していた。

「太吉……毎年言っているが……逃げてスマンかった。ワシはほんまに情けない男や。仲間であり親友のおまえが敵軍に突っ込んでいったのに……ワシは逃げてしもた……おまえの頭が吹っ飛ぶのを見て、腰が引けたんや。ワシは逃げた……ワシは罪を犯したんや……その罪を償わなアカン……毎年、そう言いながらも死にきれず、逃げてきたけど、今年こそそっちへ行くから……そうしないと、そろそろお迎えが来る歳になってきたしな……病死や事故死、自然死はアカン、自分で自分を裁かなアカンのや……」

 源じいはそう言い、ナイフを腹に突き刺そうとした、その時だった。

 誰も来るはずのないこの場所に、人の気配がした。慌てて振り向く。

「!」

 薄汚れた男が立っていた。

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