ジャージ姿の天使⑥

 耳元で声がする。あのガラガラ声だった。

「あのサラリーマンを助けたら、あんたの背中の羽根は落ち、あんたは自由の身だった。本当の意味で生き返ることができた。だが、あんたはあのサラリーマンを助けられなかった。それどころか、あんたの声で驚かせてしまい、足を踏み外させた」

「……」

「このままではあのサラリーマンは確実に死んでしまう。ただ、特別に、その羽根を使えば、救えるようにしてやろう」

「!」

「ただ……その場合、あんたは死んでしまう」

「……」

「どうする? 死にたくないんだろう? 生きて、世のため、人のために役立ちたいんだろう? 顔にそう書いてあるぞ」

「……」

 言われて改めて気づいた。

 そうだ、俺は生きたいと願っている。生きて、どんなことでもいいから人や社会の役に立ちたいと思っている。過去に悪事ばかりを働いていた反動なのだろうか。

 いや、それだけではない。

 決して偽善ではない行いは、人や自分を幸せな気分にしてくれることを知ってしまったからだ。

 今や、自由がどうとかいう意識はなかった。

 屋上に来たことで、空はもはや長方形ではなかった。真冬の真っ昼間の青空は頭上に大きく広がっている。

「別にあんたはあのサラリーマンの担当というわけじゃないから、救わなければならないという義務はない。見て見ぬフリをして、別の場所で誰かを助け、羽根を落とせばいい。そうすれば、あんたは自由だ。自由に生きられる」

「……」

 サラリーマンを見捨てれば、自分は死なずにすむということか。これからも生きられるということか。俺にとっては願ってもないチャンスだった。

 ただ、やはりサラリーマンのことが気になる。

 正直、気持ちは半々だった。サラリーマンを助けたい気持ちと、自分が助かりたいという気持ち。

「どうする?」

 俺は迷った。

 死にたくない。生まれてはじめてそう考えていた。死の世界には自由なんてないのだと悟っていた。

 そして、生きてこその自由だと理解していた。不自由があるから自由がある。苦があるから楽がある。

 生きたい。

 心からそう思った。

 でも、サラリーマンも救いたい。助けたい。

 自分が助かれば、サラリーマンは死ぬ。サラリーマンを救えば自分は死ぬ。

 迷っていた。

 今までの人生が走馬灯のように脳裏を駆けた。ずっと孤独だったこと。自由を求め続けたこと。数々の悪事を働いたこと。ビルから飛び降り自殺を試みたこと。

 そして今、生きているということ。

 不意に、悪魔の囁きのような声が脳の中でこだました。

(そんな身も知らぬ人間の命を救う義理があるのか? それをすると自分が死んでしまうんだぞ。よく考えろ。おまえは充分償いをした。胸を張って生きていけばいいんだ。それに、サラリーマンは死にたがっている。本人の思いどおりにさせてやれ。それがやさしさだ)。

 もっともな意見だった。確かに間違ってはいない。

 だが……俺は気づいてしまったのだ。

 今、自分には自由があると。

 選択の自由が与えられていると。生か死か。とてつもない選択だが、生まれてはじめて自由が与えられたと思った。一度死んだ人間に与えられるにはもったいない選択だが、これこそが、本当の自由なんだと思った。

 そして俺は、その自由を存分に味わった後、答えた。

「サラリーマンを助けてくれ」

「……いいのか?」

「ああ」

「本当にいいのか? 死ねば……あんたは、パチンコ屋の屋上から飛び降り自殺をしたと記録され、成仏できずに……俺のように天界とこの世を彷徨うことになるんだぞ」

「いいよ。それも悪くない」

「……わかったよ、後輩!」

 男の気配がスッと消えた。

 世界が、時間が動き出す。

 しばらくして、ドサッという音がした。

 サラリーマンが飛び降りたあたりに駆け寄り、下を覗く。

「!」

 サラリーマンは通りかかったトラックの幌の上でバウンドしながら、運ばれていく。

 思わず笑いが洩れた。サラリーマンは助かった。

 不思議な気分だった。達成感のようなものがあった。

 ただ、今までの悪事を償ったとか、善い事をしたとか、そんな気持ちは全くなかった。人として、当たり前のことができたという嬉しさだけがあった。

 同時に、最期の最期に、自由に出会えたことが嬉しかった。それも、自分の運命を選択する自由を与えられたのだから……。

 徐々に背中がむず痒くなってくる。

 やがて、背中が軽くなった。

「さよなら、ジャージ姿の天使」

 そう呟いた。

 視界の隅に、風に舞う羽根が見えた。最後の一枚の羽根。

 両親は誉めてくれるだろうか。

 いや、自殺したことに関しては叱られそうだな。

 羽根を目で追う。

 そろそろ冬も本番だ。

 ジャージ姿ではもう寒いな、ふと思った。

「さよなら、ジャージ姿の天使」

 もう一度呟いた。

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