ジャージ姿の天使⑤

 背中の羽根は、毎日の行いのおかげで、残りわずかになっていた。

 俺は、幼い頃から追い求めてきた、真の自由がそこまで迫っていることに興奮し、善行をさせようとする何者かの意志に体を委ねた。

 だが、少し前から、不思議な気分の良さを感じていた。

 人の手助けをし、その人の喜ぶ顔を見ていると、俺も喜ばしい想いに包まれるようになっていたのだ。

 人に礼を言われたら嬉しいということも知った。思えば、今まで人に喜ばれたり、感謝されたり、礼を言われた経験がないため、わからなかったのだ。

 最初は、善い行いをするたびに羽根が一枚落ち、それこそが、自由が近づいてくる証明のような気がし、それに対する喜びだと考えていたのだが、それだけではなかったようだ。その中に、人の役に立っているという喜びもあるのは事実だった。たとえ、それが自分の意思でなくとも。

 不思議だった。

 自分の感情の動きがおかしかった。

 俺のような悪人でも、人の役に立つのは嬉しいようだと呟いた。

 確かに、コントロールされた体が困っている人を助けているのだが、最近は、操られる前に、自ら行動を起こすこともあるのだった。

 俺の中に、困った人がいれば手助けするのが当たり前だという気持ちが生まれていた。

 ふと、両親のことを思い出す。

 両親は、真面目で立派な人間だったようだ。そして、困った人や苦しんでいる人がいると放っておけず、自分たちのことは常に後回しで、人助けに奔走する人生を送ったらしい。

 俺は、両親のような生き方をかわいそうだと思っていた。憐れだとも思っていた。

 だが、それは間違いだったと今になって思う。

 両親の生き方は素晴らしかった。その血を引いていることを誇りに思う。

 ただ、残念なのは、一旦「死んで」からそう思ったことだ。

 生きている間は、悪事に悪事を重ねた。両親に申し訳ないと思った。あの世で合わせる顔がないとも。


 そして、羽根はとうとう最後の一枚になった。

 俺はそれまでと同じように繁華街を歩いた。だが、なかなか困っている人に巡り会えなかった。

 それでも笑みをたたえながら歩いた。

 もうすぐ自由になれるという想い。そして、人の喜ぶ顔を見ることができるかもしれないという想い。その二つが同じくらいの比重で心を占めていた。今や、決して、自由になるための善行に、体を提供しているという想いはなかった。

 そして、もし自由になっても、今までのように、困った人がいれば助けてあげようと考えていた。

 最初は、コントロールされるがままに繰り返した善行が、いつしか気持ちに変化をもたらしていた。不思議だった。

 自ら死のうとしても死なせてもらえず、天使になった時は頭が真っ白になった。まさに罪の償いをさせられているという気持ちになり、自由が奪われたと、全てを恨んだものだ。

 だが、今は、そんな気持ちは微塵もなかった。

 弾むように歩きながら繁華街を抜け、裏道に入った。路地を行く。

 ふと、最初の善行をした時のことを思い出した。あの時は逃げるようにこの路地に入り込み、長方形の空を見上げたのだった。

 今、あの時と同じ場所に立っている。だが、あの時と今とでは全く心境は異なっていた。

 あの時と同じように長方形の空を見上げる。初冬の空は穏やかに澄んでいて、見える範囲に雲はなかった。高い位置で風が舞っているのがわかる。

 背中の最後の一枚の羽根も、風に舞い上がり、空へと還っていくのだろうか。そんなことを考えた時、俺の視界を黒い影がよぎった。

「!」

 目をやる。

 ビルの屋上。誰かが金網フェンスを乗り越えるのが見えた。

 自殺だ。

 咄嗟に思った。思った時には駆け出していた。

 俺は路地から表通りへ出、築二十年は経っているであろう雑居ビルの玄関アーチをくぐった。エレベーターへ飛び乗る。

 安全のためか、古いせいか、エレベーターの速度は苛々するほど遅かった。思わず地団太を踏んでしまう。三十秒近くかかって、ようやく最上階の十階に到着した。そこから屋上までは階段だった。

 気が急いていた。こうしている間にも飛び降りていたらと思うと、わずか二十段ばかりの階段がとてつもなく長く思えた。

 やっとのことで屋上に辿り着き、扉を押し開ける。

 小さく古いビルだけあって、もちろん屋上の面積も狭く、ほんの五メートル先の破れた金網の向こうに一人の男の姿があった。

 グレーのスーツに身を包んでいる。その背中が冬の太陽を照り返していた。背後からだから想像するしかないが、おそらく自分と同じ年恰好のサラリーマンだろう。体つきも自分と似ている。

 ふと、パチンコ店のビルから飛び降りた時のことを思い出した。

 サラリーマンは、きちんと靴を脱ぎ、背中を丸め、路地を覗き込んでいる。脇に置かれた革のビジネスバッグの上には白い封筒が置かれてある。遺書だろう。

 靴も鞄もまっすぐに揃えられている。

 俺は、そのサラリーマンが真面目で律儀な人間のような気がした。多分、仕事を一生懸命するだけに、その分、他人より多くのものを抱え込み、それが自分の中で消化しきれず、がんじがらめになり、息苦しくなり、自分でもどうしていいかわからず、ついには死を選ぼうとしているに違いないと思った。

 死なせてはいけない。

 そう強く思った。 

 俺は、相手を驚かせてはいけないと思い、音を立てない程度にそっと、それでも足早に近づいていった。

 だが、サラリーマンは今にも飛び降りそうだ。

 俺は思わず声を上げていた。

「待て! やめるんだ!」

 だが、その声に驚いたサラリーマンは足を滑らせた。

「!」

 サラリーマンの姿が視界から消える。

 と、その瞬間、世界が……時間が止まった気がした。

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