ジャージ姿の天使③

 目が覚めた。毎朝、眠りから覚めるのと同じように目が開いた。

 だが、何か違和感があった。

 あたりを見まわす。

 最近ねぐらにしているいつもの公園。花壇と木の間のスペース。そして、いつもの濃紺のジャージ。スニーカー。木の枝には、もうすぐ訪れる冬に備えて同じく濃紺のドカジャンが干してある。何もかもいつも通りだった。それが当然だった。変わりようのない生活。

「!」

 いや、いつも通りだとおかしいのだ。俺はようやく気づいた。

 パチンコ店での出来事を思い出したのだ。

「俺は生きているのか?」

 思わず呟いていた。

 夢を見ているのかと思った。そして、パチンコ店での出来事が夢なのかと考えた。

 ドラマや映画の登場人物が、夢か現実かを見極める時に頬をつねるが、ついそれと同じことをやっていた。

「……」

 痛かった。

 今、生きているのは現実だ。

 そして、ビルから飛び降りたのも、また現実だ。

 だが、怪我ひとつ負っていない。痛む箇所もひとつもなかった。

 奇妙な感覚に見舞われる。違和感といってもよかった。そしてその違和感が疑惑と不安に変わる。

 飛び降りたのは事実だ。だが、命を落とすどころか怪我ひとつせず、生きている。そして、いつものねぐらで寝ていた。

 激しい疑惑と不安に襲われる。何に対してのものなのかはわからなかった。

 と、目の前に突然人影が現れた。

「!」

 昨日の男だった。薄汚れた顔に真っ黒なコート、黒いサンダル、そしてサンダルから覗く素足も、まるで焦げたように黒かった。

 パチンコ店のビルの屋上から飛び降りる寸前まで、俺のジャージの袖口を掴み、自殺を思い留まらせようとした男。

 店員が現れた時、男の力が緩んだ。その隙に俺は飛び降りたのだった。

 あの時、男はどうしたのだろう? 一緒に飛び降りたのか? 俺は途中で気を失ったから何も覚えていない。

 男が助けてくれた? まさか!

 男はガラガラした声で言った。

「驚いたか?」

「……」

 言葉を返せないでいると、

「まあ、そういうことだ」

 と男は言った。

「……そういうこと?」

 やっとのことで言葉を返す。

「そういうことだ」

 男が頷き、俺の背中を覗き込む。

「!」

 男に見られた瞬間、俺は背中の違和感に気づいた。

 やけにむず痒い。

 思わず、飛び上がるように立ち上がり、首を捻っていた。

「!」

 目を疑うものが背中にあった。

 真っ白な翼が生えていたのだ。そしてそれはかなり大きい。俺の背丈ほどあった。

 まるで、漫画や絵画で見る、天使のようだった。

 ジャージを突き破り、それは生えている。

「はあ?」

 誰にともなく、間抜けな声を発していた。

 今度こそ間違いなく夢だと思った。さっきと同じく、頬をつねっていた。やはり痛かった。

 その痛みを感じずとも、夢ではないことを理解していた。

「何なんだ、一体?」

 呟き、怖々羽根を触った。鳥の羽根そのものの感触だった。引っ張ってみる。びくともしなかった。

 わけがわからず、呆然と佇んでいた。何も考えられなかった。考えたくなかった。この期に及んで、これは現実ではなく、夢であってくれと願っていた。

 もしかしたら、自分は死んだ後、天から選ばれ、天使になったのではないかと考えた。だが、すぐにそれを否定した。悪事ばかりを働いてきた自分が天使に選ばれるわけがない。

 それに、この世に天使など存在するわけがない。もし存在したとしても、薄汚れたジャージを着ている天使なんているわけがない。

 顔見知りのホームレスたちが、いつもと変わらぬ挨拶をしてくる。怖々挨拶を返したが、ホームレスたちの反応はごくごく普通だった。彼らに翼は見えていないようだ。そして、男の姿も……。

 戸惑った。わけがわからない。そんな俺に向かい、男が口を開いた。

「昨日も行ったように、俺は死人でね。天界の入口とこの世を彷徨っているんだ。自殺者を救うためにな」

「……」

「だが、昨日、俺はミスをした。あんたに飛び降り自殺を許してしまった。そして、あんたは無事死んだ」

「……」

「大失態だ。俺はこのままでは一生……いや、一生という言い方は変か……俺は永遠に彷徨うことになる。そうなると俺はもう二度と妻と子に……」

「えっ?」

「……いや、別に……とにかく、俺はしくじった。だが、一度だけ救済措置があることを思い出した」

「……」

「一度だけ、『生き返らせ』という儀式を使えることを思い出したんだ」

「生き返らせ?」

 男は頷いた。

「あんたは生き返った。だが、ただ生き返らせるわけにはいかず、そうやって背中に翼が生える羽目になった」

「……ふ、ふざけるな! 誰が生き返らせてくれって頼んだよ! それに、こんな翼を……ふざけるな!」

「ふざけていない……俺も必死なんだ。しくじるわけにはいかないんだ」

「そんなの俺には関係ないじゃないか!」

「関係はある。今回、あんたの担当になったんだからな。あんたを自殺から守る役目が俺にはあったんだ」

「……」

「ただ、あんたにも、その翼とおさらばするチャンスがある」

「な、なんだ? どうすりゃいい?」

「困っている人を助けたら、羽根が一枚ずつ落ちていく。そして羽根が全てなくなった時、あんたは自由になれる。逆に言えば、あんたには、その背中の羽根がなくなるまで、自由はないということだ」

「……」

「念のため言っておくが、早く自由になりたいからと言って、羽根を自分で抜こうとしないことだ。まあ、抜けはしないが」

「……」

「もちろん、死のうとしても無駄だぞ。自殺はできないことになっている。さっき『生き返らせ』と言ったが、まだあんたは完全に生き返ったわけじゃない。その翼がなくなった時にはじめて本当の意味で生き返るんだ」

「……」

「じゃあ、健闘を祈るぞ」

「お、おい、待て!」

 俺の声が虚しく響く中、男はスッと消えていった。

 ホームレスの一人が捨てたのか、古新聞が風に舞っていた。紙面には妻子を追って自殺した男の自殺記事が載っていた。それが、あの男と結びつかず、俺は目を逸らした。

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