ジャージ姿の天使②
だが、迷っていた。リスクが大きいと思った。最近、換金所が襲われる事件が多発しており、どのパチンコ店も警戒を強めていることを知っていたからだ。
しかし、空腹とパチンコ店に対する怒りが俺を決意させた。
ベニヤ板のような薄い木で囲まれた小屋のような換金所の前を一旦素通りする。小窓からはテレビに目をやる中年の女の姿が見えた。
あたりを見渡した。人の気配はない。元々、換金所は、人目につかない場所にある。人気がないことと、まだ店が開いたばかりということもあり、誰も換金所へ来ることはないだろうと判断した俺は、商売道具の一つである、折り畳みナイフを作業ズボンのポケットから取り出し、小屋に近づいていった。
小窓から中を覗き、声をかける。女は五十がらみで、化粧もしていなかった。俺に顔を向けたが、神経はテレビに行っていた。
そんな女の行為に苛立ちが増し、小窓からナイフを突っ込んだ。
「金を出せ!」
押し殺した声で、しかし鋭く言う。女の神経がテレビから離れ、俺に向く。満足だった。
「ち、ちょっと待って。すぐに出すから」
女は、開店直後で金の用意をしていなかったのか、机の引き出しらしき場所に手を突っ込み、何やらせわしく動かしている。眉間に皺を寄せ、レジか金庫と格闘しているようだ。おそらく襲われるのははじめてなのだろう。焦っている。
だが、俺も焦り始めていた。
まわりに人気がないとはいえ、いつ誰が通りかかるかわからない。
「早くしろ!」
俺は苛立った声を出した。ナイフに怯んだ女は、一万円でも二万円でもすぐに出すと思っていたからだ。それでよかった。何も大金など必要なかった。パチンコで負けた三千円を取り返すだけでよかったのだ。
しかし女は慌てているのか、震えているのか、両手を忙しく動かしている。
いくら人目につかない場所だといっても、真っ昼間だ。まわりは明るい。俺は次第に焦りが強くなってきた。
「おい、まだか! 一万円でいいから、早く出せ!」
そう叫んだ時だった。背後から足音と声が聞こえてきた。反射的に振り向くと、さっき俺をつまみ出した店員と、アルバイトらしき若者が背後に迫っていた。鬼気迫る表情だった。
「!」
恐怖を感じた。同時に女に怒りを覚えた。
女が店内への連絡ブザーを押したのだ。迂闊だった。金が欲しいあまり、注意力が散漫になっていた。
唇を噛み、咄嗟に逃げようとした。だが、換金所は人目につかない場所にあり、それは同時に、逃げる場所もないということだった。店員たちからの唯一の逃走コースは行き止まりだった。
俺の脳裏に、警察に引き渡され、留置所に入れられるというお決まりのコースが浮かんだ。警察の取り調べを受け、検事に引き渡され、余罪を追及され、実刑を食らう。そんなストーリーが頭の中を駆けた。
自由のない生活が脳裏に浮かんだ。そして、それは恐怖でもあった。
壁に背中をつける。万事休すだと思った。店員たちは走るのをやめ、獲物の小動物を追いつめた獣のような、残酷さをたたえた目で、ゆっくり距離を詰めてくる。
俺の自由はなくなった。そう思った。そう呟いた。
逃げるのを諦めた。
と、その時、非常階段が目に入った。パチンコ店の事務所への階段のようだった。そしてそれは屋上へと続いていた。
即座に駆け上がっていた。
店員たちは一瞬驚いた声を上げたが、自ら逃げ場のない道を行く俺に嘲笑を投げかけながら、ゆっくり階段を上がってくる。
背後にゆるやかに追っ手が迫るのを感じながらも、俺は一気に屋上まで駆け上がっていた。
もう、逃げるつもりはなかった。と、いうより、屋上へ来てしまった以上、逃げられるわけもなかった。
俺の頭には自由しかなかった。
俺は、申し訳程度に設えられた金網を越え、五階の高さはある屋上から下を見た。
アスファルトが口を開けている。俺は呑み込まれるような感覚に襲われ、恐怖を覚えた。しかし、それは、自由への入口のように思えた。
と、その瞬間、俺のジャージの袖を誰かが掴んだ。
「!」
もう追っ手が来たのかと思ったが、違った。
振り向いた俺の目に飛び込んできたのは、薄汚れた男の顔だった。ホームレスかもしれない。
「な、何だ、おまえ!」
「俺か? 俺は死人だ」
やけにガラガラした声。
「はあ? 何言ってんだ、おまえ! 離せ! いいから離せ!」
「おい、自殺なんてやめろよ。ここから飛び降りたら、脳みそが飛び散り、体はバラバラ、血だらけになって目玉が飛び出るぞ」
「……う、うるせえ、いいから離せ!」
「やめた方がいいぞ」
「関係ねえだろ!」
「自殺すると、成仏できねえぞ。永遠に苦しむことになる。経験者が言うのだから間違いない」
「……い、いい加減なことを言うな!」
「いや、本当だ」
「……いいから離せ!」
「ダメだ。別に今までの悪事を償えとは言わない。そんなことを言えた義理じゃないしな。でも、とにかく、自殺だけはやめろ」
「……何だよ、一体!」
俺はジャージの袖口を掴む男の手を解こうとした。
「!」
やけに冷たい手。氷のような、いや、氷とはまた異質の冷たさ。
男が言う、「死人」とは本当のことなのか……。
と、その時、背後で声がした。
「コラ! 観念しろ!」
「!」
ついに追っ手が来た。
と同時に、男の力が緩む。
俺は迷わず飛び降りた。いや、大空へ向かって羽ばたいた。自分でも不思議なほど、何の躊躇もなかった。自由への想いが恐怖を凌駕していた。
成仏できない? 上等だ。捕まるよりマシだ!
自由になりたい! ただそれだけを想った。そして、今度こそ、本当の自由に出会えると思った。
一度フワッと浮かんだような感覚の後、勢いよく落下していく。だが、恐怖心はなく、ただ、気持ちがよかった。まさに、自由への道を進んでいるのだと感じた。
視界に映る光景がスローモーションのそれに変わる。と同時に意識が遠のいた。
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