残飯③

 ふらつく足で交差点まで行った俺の目に、店のまわりを掃除している女性の姿が入ってきた。

「!」

 体が硬直し、その一瞬後には震え始めた。

 ルルだった。

 本当に久しぶりに見るルルの姿。俺は、ルルに見つからないよう植え込みに隠れ、そして、そのまま逃げた。

 ルルに合わせる顔などどこにもなかった。傷つけ、罵り、別れたのだ。成功したからといって今さらのこのこ近づけない。

 それに、今や俺はホームレスだ。今では誰の目も気にならなくなっていたが、ルルだけは別だった。小さな小さな誇りがあった。実際は、誇りとは呼べない誇りだが、落伍者なりの意地とでも言おうか。それを失っていない俺自身に俺は驚いた。

 同時に、ルルのことが心配だった。気になった。本当の意味で成功するのかどうか。店をオープンさせるのが成功ではなく、それを維持していくことこそが成功だと思ったからだ。

 あの男は、店は大繁盛していると言っていた。しかし、大抵の店はオープン間もない頃は繁盛するものだ。それに加え、オーナーが凱旋した女性シェフだという話題性もある。その話題に惹かれて足を運んでみようかという客も多いはずだ。

 気になった。

  

 だから俺は、営業が終わった後、再び店へ近づいた。煉瓦造りの立派な建物。一階建てだが、圧倒され、眩暈がした。

 俺はゴミ収集場へと歩を進めた。山と積まれたゴミ袋。中身は残飯だ。好奇心だけで店を訪れた客が残したのだろう。俺はそう思った。決して不味くて残したんじゃないはずだと。

 そのひとつの封を解き、俺は残飯を漁った。終電から吐き出された勤め人たちの冷たい視線が背中に突き刺さる。だが、そんな目にはもう慣れっこだった。

 ソースやオイルまみれのパスタ。むしゃぶりついた。

「!」

 美味かった。色々な種類のオイルやソースが混じっていたが、それでも美味かった。意外とグルメの多いホームレスたちの最近のお気に入りはこの「LuLu」の残飯だというのも頷ける。冷めた残飯がこれほど美味いのだから、実際はもっと美味いはずだ。

 店は必ず繁盛する。オープンのどさくさが過ぎれば、本物の、舌の肥えた客がつくはずだ。そう思った。

 不意に涙が溢れ出す。

 成功者のルルと、残飯を漁るホームレスの自分という見事なコントラストが悲しいわけでも、嫉妬心が涙を出させたわけでもなかった。

 素直にルルを祝福する涙だった。ホッとしていた。体の力が抜けていた。

 だが、すぐに全身に力が漲る。

 俺は……気づいていた。

 手の平で光り輝くオイルを見て気づいたのだ。

 ルルは俺に教えてくれていたのだ。イタリアに行ったのも、貪欲に夢を追ったのも、俺に、夢を追うことを思い出させるためだったのだ。かつて俺がルルにそのことを思い出させたように、今度はルルが俺にそれを教えてくれようとしていたのだ。

 また涙が溢れてくる。

 死ぬのはやめよう、改めて思った。

 俺は本当に情けない男だった。

 考えてみれば、世界中の劇団に断られようが、それで夢を追えないなどと考えることがおかしいのだ。

 役者でいたいのなら、自分で劇団を立ち上げればいい。そして夢を追えばいい。

 ルルもそうだった。夢のためにイタリアへ単身旅立ったが、恐らく最初は誰にも相手にされなかったことだろう。しかし、それでも諦めず、闘い、きっちり結果を出して帰ってきた。

 ルルは自らの生き様を俺に見せることで、俺に夢を追う大切さを気づかせようとしたのだ。

 涙が止まらない。

 涙の中、俺は誓っていた。

 必ず再起し、次は堂々と店で食べてやると。

 俺は残飯を通し、十年ぶりに感じたルルに心で礼を言い、頭を下げた。

「生きるよ、ルル!」

 そう呟いた。気力が漲ってきた。

 だが、次の瞬間だった。突然鋭い痛みが腰に走った。

「!」

 振り返ろうとした瞬間、次々に新たな痛みが背中に生まれた。

 刺されたことを自覚していた。

 振り返ることすらできず、膝をつく。膝をついた瞬間、鋭い痛みが鈍いそれに変わった。それに熱さが加わる。

 頭の上から声が降ってきた。

「こ、この馬鹿野郎が! ひ、人様の……な、縄張り……あ、荒らしやがって!」

「……」

 その声で、自分を刺した相手の見当がついた。このあたりを根城にしているホームレスだ。

 この一週間、文句を言われなかったのに……いや、文句を言われなかったのは、ベンチで眠っていただけだからだ。縄張り内で残飯を漁ればそういうわけにはいかない。

 俺は、膝立ちの状態から、ゆっくり前のめりに倒れていった。

「す、すまない……でも……もう残飯は漁らないから……安心しろ……」

 そう、俺は必ず再起し、店で堂々と食べるんだ。

 俺の声が届かなかったのか、ホームレスは同じセリフを呟きながら去っていく。

 俺は……自覚していた。

 夢を諦めざるを得ないことを。だが、諦めたくはなかった。必ず再起し、ルルの店で堂々とルルの料理を食べるんだ。

 だが……すべて叶わぬことだと理解していた。

「残念だ……ルル……ひと言、おめでとうと言いたかった……今はまだ……言う権利はないがな……」

 不意に寒気が襲ってくる。背中は熱いのに、全身に鳥肌が立っていた。目を開けようとするが、うまくできなかった。

 俺は……すべてを諦めた。だが、一瞬でも、もう一度やり直そうと思わせてくれたルルに感謝していた。

 そして……明日の朝、ルルが出勤するまでに、俺の屍がこの前から消えていることだけを願い、俺は眠りに落ちていった。

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