ケロイド③
アパートへ戻った私は、死のう、そう思った。
仕事の上で信頼されていた会社をクビになり、彼にも裏切られ……いや、裏切られたという表現は正しくはないだろう。最初から信頼関係などなかったのだから……。
私は、彼の偽りの誠実さ、ひたむきさに心を奪われ、利用された。
もう、誰も信用することはできない。
私なんて、誰からも愛されない。
生きていてもいいことはない。
死のう。
幼い頃から常用している睡眠薬。彼と出会ってからというもの、精神が安定したのか、よく眠れたため、服用していなかった。もう飲むことはないと思い、捨てるつもりで、シートを古新聞にくるみ、棚に置いていた。
久々にそれに手を伸ばし、数枚のシートを取り出し、錠剤を数え切れないくらい大量に手の平にばら撒いた。
軽い睡眠導入剤だが、さすがにこれだけ飲めば死ねるだろう。そう思い、それらを一気に口に放り込もうとしたその時だった。
「まあ、待て!」
誰もいるはずのない背後から声がしたのだ。それもひどいガラガラ声。
「きゃっ!」
驚き、飛び上がり、錠剤をカーペットの上にばら撒いてしまった。
腰が抜けたようになり、這うようにして背後の「声」から離れ、恐る恐る振り向く。
「きゃあぁぁぁ!」
再び悲鳴を上げていた。
男が口元に指を当てる。静かにしろという合図だろう。私はその通りにした。そうしないと命の危険を感じたからだ。
今、死のうとしていたというのに、死ぬのが怖いなんて矛盾しているが……。
男は長めのボサボサの髪に薄汚れた顔、ナイロンのコートを羽織っている。そして、部屋の中なのにサンダルを履いていた。
そのサンダルで錠剤を踏み潰していく。
呆然とする私に向かい、「自殺はやめろ」と、ポツリと言った。
男はどうやら私に危害を加える気はないらしい。そのことに勇気を得た私は男に向かって訊ねていた。
「一体、誰なの? どこから入ったの? なぜ、ここに来たの?」
男は溜息をつくと、
「質問が多いお嬢さんだ」
と首を振り、睡眠薬の錠剤を踏み潰すことに飽きたのか、私のベッドに腰掛けた。
「ちょっと、そこに座らないでよ!」
「ん? 俺が汚いからか?」
「……」
「心配するな。汚れんよ」
「?」
「なぜなら、俺はもう死んでいるからな」
「……」
「だから汚れない」
「……死んでいる? ふざけないでよ!」
「別にふざけちゃいないさ。俺は死んでいる」
男はそう言うと、睡眠薬のシートをくるんでいた古新聞に目を落とした。つられて目をやる。
いくつか記事が載っていたが、その中に、妻子を追って自殺した男の自殺記事があった。男はそれをじっと見ている。
何か関係があるのだろうか。男は自分のことを死んでいると言った。
でも……この男はどこからどうやって入って来たのだろう。それに独特の雰囲気。
本当に死んでいる? 幽霊? でも、一般的に抱く霊のイメージとは違う……。
不思議と怖くはなかった。
私はもう一度同じ質問をしていた。
「ねえ、どこから入ったの? なぜ、私の前に現れたの?」
男は薄く笑い、
「俺はどこからでも入ることができる。なぜなら死人だから」
と言った。
私は、男の言葉を信用していた。
自殺未遂の後で、精神が不安定なせいではない。そうではなく、男が嘘をついているとは思えなかったのだ。
男が続ける。
「それから、ここに現れた理由……それは、あんたの自殺をやめさせるためだよ」
「!」
それも信用していた。
「でも……なぜ?」
「自殺は最悪の犯罪だからだよ。経験者が言うのだから間違いない」
「……あなた、まさかこの記事の?」
男は答えず、小さく笑った。そして、
「自殺者は救われないし、報われない。俺は自殺したせいで、成仏できず、天界に行けないんだ」
と、少し寂しそうに言った。
「……」
「それだけでなく、こんな仕事をさせられている」
「……自殺者を救う仕事?」
「救う……そう言うのはおこがましいが……まあ、そんなようなものかな」
「あなた……天界の門番みたいなものね」
「……」
男が少し考える顔になる。
「どうしたの?」
「……いや……別に」
「……」
「まあ、とにかく、自殺なんてやめろ」
「……別に私……成仏なんてできなくていいし……生きていても……」
「生きてりゃいいことがあるなんて言うつもりはないが……」
「……」
「ただ、自殺者の行く末は憐れだ。いや、地獄だよ」
「……」
「あんた、親がいるんだろう?」
「……」
「子供に先立たれた親の苦しみは……言葉では言い表せないものがある……」
「……偉そうに言わないでよ! あんただって自殺したじゃない!」
「そうだ。自殺した。だから偉そうには言えないし、別に偉そうに言っているつもりもない。ただ……自殺して今、苦しんでいるからこそ、その経験から自殺はやめろと言っているんだ。もっと言えば、自殺したからこそ、言えるんだよ」
「……」
「子供に先立たれた親の気持ちもわかる。あんたが死んだら……自ら命を絶ったと知ったら、一生立ち直れないくらいのダメージを心に負う。悲しみが消えることはない」
「……でも、私は別に親に愛されていなかったし……」
「本当にそう思っているのか?」
「え……」
「あんたはその前に親を愛したか?」
「……」
「人を愛さない者が、人に愛されるわけなどない」
「!」
男の言う通りかもしれない。私は幼い頃からケロイドのせいで、心を開けないでいた。まるでケロイドが心の蓋になったかのように……。そんな私に、両親はどうすることもできなかったのではないか……。
「まあ、そういうことだ」
「……」
「生きてりゃ、何かある」
「……」
そう言うや、男はスッと消えた。
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