栞⑥

 幸一は古本屋へ向かった。母が言ったように、確かにあの古本屋は、かつて幸一が頻繁に通った店だという確信があったからだ。

 店主に会いたかった。そして、売られている本は、かつて自分のものだったような気がしていた。できることならすべて買い戻したかった。

 と、そこまで考え、ふと我に返る。

 店主は亡くなったはずだ。亡くなったからこそ、店を閉めたのだ。それを思い出していた。

 それなら一体あの店は……幻でも何でもない、この本も手紙も実在している。

 幸一は走った。

 そして、確かに店は実在していた。しかし、シャッターが下りている。

「!」

 ふと閃いた。

 あの男か?

 あの男が演出したことなのか?

 自殺を完全に思い留まらせるために、演出したことなのか……。

 そう思った瞬間、男が姿を見せた。

「!」

 驚く幸一に向かい、まるで幸一の心の中を見透かしたかのように、言った。

「俺じゃない。俺にはそんな力はない。俺は、天界の入口とこの世の間を行ったり来たりするしかできないんだ」

「……」

 男が急に現れて、一瞬驚いたが、すぐに冷静になれた。不可思議だと思うこともなかった。それが、自分でも不思議だったが……。

 元来幸一は、基本的に霊の存在や、超常現象を信じない人間だ。だが、男に言われたからというわけではないが、自分の価値観や常識の範疇にないものを信じ、受け容れるのも悪くないと思い始めていた。

 男は、「俺じゃないよ」と繰り返し、そして続けた。

「誰かが居抜きであの店を買ったんだろう。あんたがここへ来た時、たまたま風を通すために入口を開けていた。それだけのことだろう」

「でも……」

「あんたがここへ来たのは偶然だろう? そして、あの店が開いていたのも偶然だ。もっと言うと、俺があんたの自殺を止めたのも偶然だ。その本があんたの元へ戻ってきたのも偶然だ。この世は偶然の繰り返しでできている」

「……」

 確かに偶然の連続でこの世は動いているのかもしれない。

 ただ……霊の存在など信じない幸一だったが、しかし、この偶然は、天国の父が演出してくれたような気がしていた。

 幸一は、母だけでなく、あの世の父にも支えられている自分を強く意識した。

 本を抱きしめる。本だけでなく、幸一を支えてくれている全てを抱きしめた。

 涙の溜まった目で空を見上げる。

「ありがとう」

 自分が発したそのひと言が、自らの涙腺を刺激した。 

 涙がどっと溢れてくる。

 上空を仰いでも、涙は次から次へと溢れ出てきた。 

 医大合格までとっておくはずだった涙がどんどん溢れてくる。

「今日くらいはいいだろう」

 男が言った。

 幸一は男に頷き、男にも礼を言った。

「ありがとう」

 男は照れたような、面倒臭そうな仕草で長めの髪をかき上げると、

「いい医者になれよ。いい医者とは、常に患者を一番に考える医者のことだ。まあ、釈迦に説法だろうがな……」

 と、なぜか寂しそうに言った。

 幸一が戸惑っていると、男はまた言った。

「それから、ついでにこの国の医療制度も変えてくれ。貧しくても、社会的地位がなくても、金持ちや地位ある人間と同じように、平等に治療や手術を受けられる国にしてくれ」

「!」

 幸一は、もうひとつの偶然に思い当たった。

「……もしかして、あんた……あの医療ジャーナル誌の記事の……」

「……」

 男が薄く笑った。と思った時にはもう男の姿は消えていた。

「……」

 男の言葉を胸に、幸一は改めて医師への想いを強くするのだった。

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