栞⑤

 レジには誰もいなかった。

 奥の住居らしき部屋へ声をかける。だが、なかなか応答はなかった。幸一は何度も声をかけたが、反応はなかった。

 何気なく裏表紙を見る。そこには三百円の値札が貼ってあった。幸一は、ポケットから百円玉を三枚取り出すと、もう一度店の奥へ向かって声をかけた。だが、やはり反応はなく、幸一は仕方なくカウンター台にお金を置くと、そのまま店を出た。

 その足で、幸一は、母の勤める病院へ向かった。さっきまでとは違い、母に一刻も早く、受験の結果を報告したかった。良い知らせではないが、結果を報告し、そして現在の気持ち、そして今後の道の歩き方を母に告げたかった。もちろん親戚や父の患者だった人たちにも堂々と結果を報告し、堂々と夢を語るつもりだった。

 病院に到着するとすぐにナースステーションへ向かった。運良く母がいた。母は驚いたが、外来の待合ソファで待つように言った。

 外来の診療時間が過ぎたせいか、待合には誰の姿もなかった。幸一はソファに座り、母を待った。母はすぐに現れた。

 コートのポケットから、くしゃくしゃになった不合格通知を取り出し、母に渡した。

 母はそれを見て頷き、そして訊いた。

「どうする?」

 幸一は、それまで大切に抱えていた本を見せ、その中から手紙を抜いた。母に見せる。

 母は心底びっくりしていた。

「これ、どうしたの?」

 幸一は手短に説明した。

「そう……隣町の……あなたがいつも通ってたお店ね」

「え……」

 そういえば、店に入った時、既視感に似たものを覚えた。店が狭く感じたのは、大人になったせいかもしれない。

 しかし、あの店はもうとっくに閉められたはずだ。

「かなり前に閉店したはずなんだけど……」

 訝し気な様子を見せながらも、母親は手紙に目を通した。そして、読み終えた母に向かって、幸一は宣言するように言った。

「もう一回、がんばるよ。いや、もう一回というより、はじめてがんばる。そして来年こそ合格する。これは義務感から言ってるんじゃないんだ。本当に心からそう思っている。父さんを超える男になりたいんだ」

 一気に喋った幸一は、なぜか涙が溢れそうになった。必死でこらえる。涙は合格した時までおあずけだ。

「そう。実はお母さんは待ってたの。あなたが本気になるのを。もちろん医者を目指してくれるのが一番嬉しかったけど、何でも良かった。学校の先生でもスポーツの選手でも企業の勤め人でも。とにかく本気で何かに打ち込んでほしかった」

「……」

 母の髪には所々白いものが混じっていた。よく見ると、顔にも皺が増えていた。母も、もう五十だ。

 幸一は思った。母も苦労していたのだ。そしてそれは、父と共に二十四時間態勢で働き続けてきたからということではなく、今まで幸一が自分の道を見い出せなかったことに対して心を痛めていたのだ。

 母に申し訳なく思った。

「母さん……」

「やっとあなたが本気になってくれた。それも医者を目指してくれる。こんなに嬉しいことはないわ。大丈夫。今度は受かるわ。あなたが本気にさえなれば。だって、あなたは、お父さんとお母さんの子ですもの」

「……」

 言葉が身に沁みた。

 幸一は再び涙がこぼれそうになった。そして母にそれを悟られないよう、母に頭を下げ、病院を後にした。

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