栞④

 「未来のぼくへ」

   

 ぼくは、お医者さんになりましたか?

 げんざい、ぼくは8才。今、ぼくは、ぜったい父さんのようなお医者さんになりたいと思っています。やさしくて、どんなかん者さんにもしんせつなお医者さんになりたい。

 いや、父さんをこえるようなお医者さんになりたい。そして母さんのような、強くてやさしいかんごしさんとけっこんしたい。

 かんたんじゃないと思うけど、いっぱい本をよみ、いっぱいべんきょうして、一生けんめいがんばりたいと思う。

 この、野口英世の本をよんで、よけいに強くそう思った。

 ぼくはお医者さんになることができましたか?

                           こういち 8才

   


 涙が溢れて止まらなかった。

 右手に本、左手に自分への手紙を持ったまま、嗚咽を洩らしていた。

 記憶が甦ってくる。

 この手紙を書いたことも、その内容も、そして書いた時の気持ちまでも思い出していた。

 そしてこの「野口英世」の本。これは間違いなく自分の本だ。手にした時から、しっくりきたのはそのせいだったのだ。表紙についた染みまでも懐かしい気がする。 

 幸一はじっと「野口英世」の本を見つめた。そして全てを思い出した。

 幸一は、この本が一番好きで、とても大事にしていた。古本屋に本を売りに出すことを覚えてからも、この本だけは売らずに、本棚にしまい、大事にしていた。この本を人生の手本としていたからだ。本に自分への手紙を挟んだのも、自分の人生の手本と目標を、共に、ずっと大切に保管しておきたかったからだ。

 だが不覚にも、誤って他の本と一緒に売りに出してしまったのだ。しばらくしてそれに気づいた幸一は、古本屋に行ってみたが、もうそこに店はなかった。店主が亡くなったため、店を閉め、一家で引っ越してしまったあとだったのだ。

 そしてそれ以降の自分は、いつしか夢や目標を見失い、大切な人生の書をなくしてしまったことすら忘れ去っていた。

 情けなかった。

 そんなことすら忘れ、親や親戚、そして自分を憎むことしか考えられなかった自分自身が情けなかった。恥ずかしかった。

 だが、今、懐かしい、人生の手本であるこの本が見つかった。偶然とはいえ、再び幸一の手の中に舞い戻ってきた。

 もう一度、手紙に目を通す。

 改めて、子供の頃、医者になりたいという夢、目標があったことを思い出す。

 あの頃、身近に偉大な父がいた。そして子供だけに純粋にその姿が目に入ってきた。その結果、父のような、いや、父を超える医者になりたいという想いが沸々と湧き上がってきたのだ。

 子供の他愛ない夢ではなく、心からの想いだったはずだ。

 幸一は、幼い頃の純粋で、真っ直ぐな夢さえ忘れていたことや、医者になろうとしているのは、父が死んだからだとか、代々続いた医院を守るためだとか、親戚に尻を叩かれたせいだなどと、自分自身いつしかそう思うようになっていたことが、本当に情けなかった。

 純粋な夢を、純粋に追いかけることを忘れていただけでなく、それを人のために仕方なく追いかけるような気持ちになっていた自分。結局それは、受験に失敗した時の言い訳、逃げ道として使うのに便利だったからだ。自分の力不足を人のせいにできるからだ。

 情けなかった。

 そして、父が死んだことさえ恨んだ自分が、本当に恥ずかしかった。

 もっと情けないことがある。

 死のうと考えたことだ。

 死んだ方が楽だなどと考えたことだ。父が、母がそんな事実を知ったら、どんなに悲しむだろう。

 子供の頃は、何のしがらみもなく、ただ単純に夢や目標を口にし、それが必ず実現するものだと信じていた。確かにそうだ。しかし、それは今も同じではないか。目の前の目指す手本である父が亡くなったのは事実だ。医院が閉鎖されているというのも現実だ。だが、それが夢や目標に何の影響がある? 親戚が何を言おうと、夢や目標が、義務にすり替わるものではないはずだ。

 幸一は改めて自分の胸に問うた。おまえは今後どうしたいのかと。

 愚問だった。

 ここ数年、義務だとばかり感じていた、医者になるという進路。それが義務などではなく、自らの夢だと認識した今、答えは自ずと決まっていた。

 父を超える医者になる!

 一体いつ以来だろう。幸一が夢や目標に前向きな気持ちで対峙するのは。おそらく幼い頃に、それらを胸に描いて以来だろう。何しろ幸一は、それらをずっと見失っていたのだから。それらがあったことさえ忘れていたのだから。

 涙を拭う。

 幸一は、手紙を本の間に挟んだ。まるで栞のように。そして今まで以上に大事にそれを抱え、レジに向かった。もちろん買い戻すために。

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