栞③
男に水を差された格好になった幸一は、何となく踏切を渡りたくなった。線路を横切る。だが、当たり前だが、男のように消えてしまうということはなかった。
隣町。
周囲の風景に目をやりながら、彷徨うように歩く。小学生の頃、冒険と称してこの町に足を踏み入れたことが何度かある。ただ、随分様子が違っていた。幸一の住む町と同じく下町だが、新たに進出したスーパーや商店が軒を連ねていて、垢抜けていた。
幸一はその中に一軒の古本屋を見つけた。思わず足を止めていた。
幸一は幼い頃から本を読むことが好きだった。小学生になり、小遣いを貰うようになった幸一は、それを貰うやいなや、近くにあった古本屋へ行き、本を買い漁った。同級生たちが駄菓子屋へ行き、飴やガムを買って喜んでいるのを尻目に、幸一は本棚を見つめ、一心不乱に読みたい本を探した。
値段が安いため、少ないお金で読みたい本が何冊も買えることに興奮したのを覚えている。
小遣いが底を突き、お金がない時は、立ち読みもよくした。店の老主人は、幸一には何も言わなかった。常連客であること、店主が父の患者であり、父と仲が良かったことがその理由だったのだろう。そして漫画をほとんど読まないことも心証をよくしていたのかもしれない。読むのはいつも、伝記や童話だったのだ。
今、あの古本屋はない。五年ほど前、店主が病気で亡くなったのをきっかけに、店を閉め、息子たちは他所へ越していってしまったのだ。今では乾物屋に変わってしまっている。
しばらく昔を思い出していた幸一だったが、ふと我に返ると、古本屋に足を踏み入れていた。まるで吸い込まれるように……。
店はやけに狭かった。大型の古書店が数多く存在する中、今時珍しいタイプの店だった。
ただ、何となくだが、懐かしい想いというか、既視感のようなものを覚えていた。
だが、幼い頃通っていた古本屋は、もっと広かったはずだ。
狭いせいか、本の数は多くはなかった。いや、狭いせいではなく、本棚は隙間だらけだった。
幸一は、古本独特の何とも言えない懐かしい匂いを嗅ぎながら、子供向けのコーナーへと足を向けた。懐かしいのは鼻で感じる匂いだけではなかった。本棚に並ぶ児童書の背表紙が、幸一の目に懐かしさを運んできた。全部、幼い頃に読んだ本だったのだ。
童話。昔話。伝記。
そして、隣のコーナーには、医療事故や医療の問題点を特集した月刊誌もあった。
父が反面教師とするため、よく読んでいたものだ。幸一も父に倣い、子供の頃から読んでいたのだ。
その一冊一冊を本棚から引っ張り出し、頁をめくった。
子供向けに大きな字で簡潔に書かれた書物に、幸一は時の流れを感じた。
しかし、頁をめくる度、鼻腔をくすぐる古くなった紙の匂いが、幸一を過去へとタイムスリップさせたように、あの頃を思い出させた。
毎日のように古本屋へ通ったこと。
月に一度の小遣いの日にだけ、古本を買ったこと。
そして、小学校も高学年になると、低学年の時に買った本に物足りなさを覚え、それを古本屋に売ることを覚えたこと等……。
その時その時の情景が、次々に浮かんでは消えていった。
月刊誌にも目を通す。
「!」
最初に目に飛び込んできた記事。幼い頃読んだ記憶がある。小さな子供の死亡記事と、母親の死。そして父親の自殺記事。自分と同じくらいの年齢の子供が亡くなった出来事だから覚えている。
子供は重い心臓病を患っており、海外での移植が生き延びる唯一の道だった。だが、それには大金が必要だったから、父親は会社を辞め、その退職金と借金で何とか金を作った。だが……ブローカーはその金を持ち逃げした。そして……子供は亡くなり、母親は病死し、父親は自殺した。
「……」
今読んでも、やりきれなさが募ってくる。人の命を弄ぶなんて、もってのほかだ。そしてこの事件には、医師も関係していると言われていた。証拠不十分で、起訴はされなかったようだが……。
それにしても、医師の風上にも置けない。いや、人として……いや、もはや人ではない。
やりきれなさを抱えたまま、月刊誌を閉じた。
次はとうとう最後の一冊だ。
一番上の段の、一番端に陣取っているそれは、今まで見たどの本よりも、一層懐かしい光を放っていた。
「野口英世」の伝記だった。
それを手にした時、懐かしさと共に、何か手にフィットするような、しっくりくるような感じを受けた。
表紙をめくり、かなり黄ばんだ頁を開く。やはり小学校低学年向けのものだけあって、平仮名が多く、字も大きい。
幸一はわざとゆっくり、噛み締めるようにそれを読んだ。懐かしさを、目で、鼻で、そして心で感じながら読んだ。子供向けの本ではあるが、野口英世の人生が、余すことなく、丁寧に描かれている。それでも五分足らずで、全て読みきってしまった。
幸一は読み終わった後も、しばらく呆然とし、本を閉じることができずにいた。
やさしく、強い母に育てられ、手のハンディに腐ることなく勉学に励み、医学と伝染病の研究に全てを捧げた野口英世の人生。
改めて感銘を受けていた。思いがけず目頭が熱くなり、幸一は本を閉じようとした。
と、その時だった。頁の後ろの方から何かが落ちた。栞かなと思い、それを拾い上げようとした幸一は、途中で手を止めていた。
「!」
栞ではなかった。
四つに折り畳まれたそれは、アニメのヒーローが描かれた便箋だった。
「……」
幸一が手を止めたのは、それが栞ではなかったからではない。その便箋に見覚えがあったからだ。それもただの懐かしさだけでなく、大切な探し物がようやく見つかり、それが未だに信じられないという感覚に似ていた。それが幸一の手を止めていた。
空中で止めていた手が小刻みに震え始める。それに急かされるように、幸一は再び手を便箋へと動かし始めていた。
カサリという音と共に拾い上げる。それを手にした瞬間、幸一は確信を持った。自分の便箋だと。小学生の時に使っていたものだと。
もちろんこういうキャラクターが描かれた便箋は人気が高く、量産品であったため、自分のものとは限らないのだが、しかしそれでも確信があった。自分のものだと。ただ、何を書いたのかは思い出せない。
色々な疑問が湧いてきたが、そんなことより、とにかく早く中を見たかった。
まだ震える手で便箋を開き始める。折り目が破れかけている箇所があるため、幸一は慎重に開いた。
鉛筆で書かれた稚拙な文字が目に飛び込んでくる。紛れもない自分の字。
「!」
やはり自分のものだった。
何かに急かされるように、目を通し始める。十年以上ぶりに読み返す自らの文章。
それは自分への手紙だった。
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