栞②

 何本電車を見送っただろう。遮断機が下りるたび、死のうと思うのだが、なかなか踏ん切りがつかなかった。やはり恐怖心があるのだ。

 だが、死ぬのをやめようとも思わなかった。このまま生きても、自分の思うように生きられないジレンマと、まわりのプレッシャーと、他人のような人生を送らなければならない苦しさがある。嫌だった。

 次の電車が来たら飛び込もう、幸一はそう誓った。

 やがて……警報器が鳴り、遮断機が下りてきた。

 それを見つめながら、いよいよ楽になれる、新しいあの世での生活を始められる、そう思った。いつしか恐怖が希望へと変わっていた。

 遠くで警笛が鳴らされ、電車が近づいてくる。

 小さな踏切のため、他に人はいない。幸一は遮断機をくぐろうと、一歩前へ出ようとした。

 と、その時だった。

 何者かが、幸一の肩口を掴んだ。

「!」

 すかさず耳元で声がする。

「やめとけ! 自殺はやめとけ!」

 男の声だった。

 驚いた幸一は、思わず尻餅をついてしまった。肩から手が外される。外されてはじめて、冷たい手だと思った。

 踏切の前で長時間不審な動きをしていた幸一を見ていた誰かが止めに入ったのだろうか。それとも誰かが通報して、警官が駆けつけてきたのか。

 振り返る。

「!」

 男は真っ黒な顔をし、真っ黒なナイロンコートを羽織り、素足にサンダル履きだった。

 一瞬、ホームレスかと思ったが、そんな雰囲気でもない。

 戸惑いながら、ジーンズについた土を払って立ち上がると、男は言った。

「くだらないことでくだらない死に方をするな!」

 ひどいガラガラ声だった。

「……くだらないこと?」

 やはり戸惑いながら訊き返す。

「そうだ、くだらないことだ」

「……あんた、俺の何を知っていると言うんだ?」

 幸一は少しムッとし、尚も訊ねた。

「それに……あんた、一体誰なんだ?」

 幸一の問いに男は薄く笑うと、

「俺か? 別に名乗るほどの者じゃないが……通りすがりの死人とでも言っておこうか」

 男が薄ら笑いを浮かべながら答える。

「……死人? こっちは真面目に訊いているんだけど……」

 幸一は、男の答にも、その態度にも腹が立ったが、冷静に言った。

「ん? 真面目だ。真面目な答だ」

「ふ、ふざけるな!」

 男の態度につい声を荒げてしまう。

「ふざけてなんかいない。俺は真面目に答えたよ」

 男が幸一とは真逆の涼しい顔で答える。

「……」

「あんた……何でも真面目に考えすぎなんだ。それもあんたの価値観の中の真面目。俺は正直に答えているが、それがあんたの価値観にない答だからといって信じようとはしない。真面目に答えろと言う。悲しいな。そんなことだから、たかが受験に失敗したからといって、死のうなどと考えるんだ」

「……たかがって」

「たかがじゃないか。何でも真面目に、重く考えすぎなんだよ。くだらない」

「……くだらない?」

「ああ。くだらないな。受験に落ちたからって、命まで取られるわけじゃないだろう? なぜ、自ら死のうとする?」

「……」

「自殺もくだらない」

「……」

「あんたも医大を受験する人間だ。それなりの頭はあるんだろう。それならわかるはずだ。自殺は最悪の犯罪だ」

「……」

「人の命を救う人間になろうとするあんたならわかるだろう?」

「……」

「それに、考えてもみろ。人を殺せば裁かれる。だが、自分で自分を殺しても裁かれない。人ひとりの命を奪っているというのに……」

「……」

「自殺をした人間を誰が裁くというんだ?」

「……」

「まあ……俺は今、裁かれているんだけどな」

「……え?」

「いや、何でもない。とにかく、自殺はやめろ。経験者が言うんだから間違いない」

「……経験者?」

 男が頷く。

 わからない。よくわからないが、男の言葉に嘘はないような気がした。

 想像するに、男は自殺をしたが、成仏できず、この世を彷徨っているのではないか。だから、幸一に、自殺をやめろ、自殺をするとロクなことはないぞとアドバイスしてくれているのではないか。しかし、そんなおせっかいをして、この男にどんなメリットがあるというのか。

 確かに……男の言うように、自殺は最悪の犯罪かもしれない。自殺した人たちには、それぞれそうせざるを得なかった理由があったのだろう。幸一にも、自分なりの理由があるように……。

 ただ、男の言うことには一理あるような気もした。

 それに……たかが受験、受験に失敗したところで命まで取られないというのも、もっともな話だ。命まで取られないのに、自ら命を経とうとするのは、情けない話ではないか。

 警報機が鳴り、遮断機が下りる。次の電車が近づいてきた。

 気づくと、男が遮断機の向こう側にいた。

「あっ!」

 危ないと思った瞬間、男の姿はスッと消えた。

「……」

 幸一はただ呆然と、誰もいなくなった線路の上を眺めていた。

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