第2章 栞①
幸一はあてもなく町をぶらついていた。いや、ぶらついていたというより、ふらついていたと言った方が適当だろうか。とにかく彼は、彷徨うように町を歩いていた。
幸一は医者の家系に生まれた。曾祖父も祖父も、そして父も医者だった。幸一は、医者である父と、看護師である母との間に生まれた運命を受け止め、自分も医者になるため、ここ数年、医大を受験してきた。
だが今日、不合格通知が届いた。今年も全滅だった。これで三年連続だ。それを見た時、幸一の頭に最初に浮かんだのは、親戚たちの苦虫を噛み潰したかのような顔だった。
なぜなら幸一は、この三年、受験よりも、親戚たちのプレッシャーと闘ってきたと言っても過言ではないからだ。
というのも、三年前、開業医だった父が急死し、医院が閉鎖されたのをきっかけに、まわりの幸一に対する期待が急激に膨らみ始めたからだ。
叔父などは、代々続いた医院を、父の代で終わらせるわけにはいかない、だから一年でも早く医者になり、実力をつけ、跡を継げと、幸一を叱咤激励した。
医院が閉鎖されたため、近くの病院に勤めに出るようになった母親は何も言わなかった。心の中では、一日も早く息子に医院を継いでほしいと願っているのだろうが、全くプレッシャーをかけることはなかった。それだけに余計、母に申し訳なく、医大に合格できない自分に腹が立った。
父の死は典型的な医者の不養生だった。休みの日も、夜中も早朝も、具合の悪い人が医院の門を叩くと、嫌な顔ひとつせずに診察し、親身になって相談を受けていた。もちろん母も手厚く看護していた。
時には救急車がわりに父が自転車で患者宅まで走ることもあった。昔ながらの下町の風情が残る地域に住む人々は、大病院へ行くよりも、まず、父の診察を受けたがっていたのだ。
父はまさに、年中無休、二十四時間態勢で診療にあたっていた。
そんな父がついに倒れた。そして倒れたあとは呆気なかった。過労による心不全だった。常に父の体調に危惧を抱いていた幸一は、父の死はもちろんショックだったが、取り乱すことはなかった。
父は急死にもかかわらず、とても穏やかな死に顔だった。笑っているようにも見えた。まるで、ようやくゆっくり休むことができるよとでも言っているような表情だった。あとは任せたぞと言っているようにも見えた。
幸一は、そんな父を心の底から尊敬し、誇りに思っていた。だが、父の死後、親戚や父の患者だった人たちの期待とプレッシャーを感じ始めるようになると、幸一は父を恨むようになった。それは受験に失敗を重ねるたび、強くなっていった。
せめて、自分が一人前になり、医院を継ぐことができるほどの実力をつけるまで、生きていてほしかったと、亡くなった父に理不尽な怒りを覚えることも度々あった。
同時に、自分の置かれている立場や環境を恨んだ。生まれた時から医者になることを宿命づけられた人生と、それに一度も刃向かうことのできない自分自身を呪った。
そして今、三度目の不合格通知をコートのポケットに忍ばせ、幸一はあてもなくただ足を前へ進めていた。もうすぐ春だというのに、風がやけに冷たかった。落ち込む幸一に、一層、世の中の厳しさを教えているようだった。
不合格という結果は、まだ誰にも報告していない。
商店街を歩いていた時、かつて父の患者だった何人かの人たちに、合格発表はまだかと問われたが、幸一はまだですとだけ答え、逃げ出すようにその場を後にした。
不合格という結果は、幸一が父の跡を継ぐ日が、また一年延びたということになる。そんな結果を誰にも告白したくはなかった。いずれわかることなのだが……。
幸一は、できるだけ人と目を合わさないように、下を見て歩いた。しかし、下町という風土上、どこからでも声がかかる。幸一はそれがとても煩わしく、足早に町から逃げるように歩いた。歩き続けた。
そして気づけば、いつしか知り合いが誰もいない、町の外れまで来ていた。
世の中には、裏口入学や替え玉受験というものが未だに横行しているらしい。受験シーズンになると新聞やテレビのニュースが、その類の報道で賑う。幸一は、浪人する前は、そんなことをする人間も大学も蔑んでいた。だが、三度も失敗すると、次第に、自分もお金さえあれば裏から入るのにとさえ思うようになった。
だが、町の外れまで来て、何となく冷静になった幸一は、そんな考え方をするようになった自分自身が急に嫌になってきた。医者の鑑である父を恨んだことも恥ずかしくなり、自分自身が情けなくなってきた。
そしてその感情は、自分自身の存在の意義にまで及び、やがて、自分のような情けない人間は、この世からいなくなってしまった方がいいのではと考え始めるようになった。
そして同時に、死んでしまった方が楽なのではないかとも思い始めた。生きている限り、親戚たちのプレッシャーが覆い被さり、たとえ医者になったとしても、常に偉大だった父と比較され、辛い思いをすることは目に見えているからだ。それに自分が死んでしまえば、まわりは諦めざるを得ない。
そもそも、自分の将来を、人に決められることが気に入らなかった。そして、そのことに反論できない自分自身も、幸一は前々から嫌いだった。
人の命を救う仕事に就こうと思っている者が、自らの命を絶つことを考えている。
だが、幸一は冷静であるが故、真剣だった。
目の前には踏切。
隣町との境目となっている線路で最期を迎えようと思った。
あの世へ、見知らぬ町へと行けるような気がしたのだ。
幸一はポケットの中で、不合格通知をくしゃくしゃに握り潰しながら、下りてくる遮断機を見つめていた。
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