ヒットマン⑦

 次は準決勝だ。

 相手はオランダのクラブ用心棒だった。こういう何でもありの大会では意外と用心棒という存在は上位に入賞したりする。格闘家のテクニックを、実戦を数多く積んだ者の技量が凌駕することが多いということだろう。

 だが、それなら俺も負けてはいない。現役を引退してから今まで実戦でやってきたのだから。

 相手と俺はほぼ同じ体格だった。俺は全く負ける気がしなかった。心は、一足先に決勝へと駒を進めた柔術家に飛んでいた。

 ゴングが鳴る。

 相手は街のゴロツキよろしく両手をダラリと下げ、独特の構えで間合いを詰めてくる。俺は一歩下がっては一歩出るというフェイントを交えながらリングを回った。用心棒も俺と同じようにリングに円を描く。

 と、場内に突如として「ディック」コールがこだました。

「!」

 タイガーコールではなくディックコール。全員用心棒を応援している。ファンなどいらないと思っていた俺だったが、さすがに一瞬動揺した。

 その瞬間を用心棒は見逃さなかった。俺の膝に前蹴りを入れるや、距離を詰め、俺の首を抱え込み、投げを打ったのだ。受け身を取れず、俺はマットにめり込んだ。だが、ダメージはない。と、思った瞬間、目に鋭い痛みが走った。

「!」

 サミング。

 レフェリーの死角になったところで用心棒は俺の目を潰しにきたのだ。

「うっ!」

 両目を押さえる俺に用心棒は馬乗りになった。パンチを雨のように降らせてくる。完全にマウントポジションを取られていた。

 俺は必死に形勢を逆転しようと、腰を撥ね上げたり、上体を揺すったりし、もがいた。だが、パンチを避けながらのため、うまくいかない。それどころか、上体を動かしたために、まともにパンチが数発、鼻や眉間の急所に入った。

 意識が朦朧とする。痛みはなかったが、意識が遠のいていく。

 俺に成す術はなかった。ゴングが打ち鳴らされる。レフェリーストップ。敗北だ。

 俺は自分の甘さを悔やんでいた。相手を舐めていた。相手の方が一枚も二枚も上手だった。平和な日本ではなく、すぐ隣に殺しが横たわっているオランダで命を張っている相手は強かった。反則ギリギリではなく、目潰しは反則行為だ。だが、一か八かそれをすることができる相手はしたたかだった。

 場内に「脱げ」コールが沸き起こる。

「!」

 マスクを脱げと言っているのだ。

 戸惑い、同時に愕然とする。

 観客は皆、それを望んでいた。呆然と場内を見渡す。皆、好奇心と悪意の籠った目で俺を見つめていた。

 だが、それだけは避けなければならない。マスクだけは守らなければ……守ればまた次がある。次の大会がある。

 今日は負けたが、また次チャンスがあるはずだ。そのためにもマスクを脱ぐなんてできない。

 警察に、組織に狙われる。

 だが、次の瞬間、相手のディックが、背後から俺の首に太い腕を巻きつけてきた。

「!」

 チョークスリーパーだ。

 試合のダメージもあり、全く動けず、グランドへ引きずり込まれる。そこへディックのセコンドたちが群がってきて、マスクの紐に手をかける。

「!」

 絶望が俺を包む。万事休す。

 痛む目から不意に涙がこぼれた。

 やがて紐が抜かれ、マスクに手がかかる。俺は目を閉じた。

 マスクを剥がす気配。

「!」

 ついに、素顔が晒された。ディックに羽交い絞めにされたまま、立たされる。

 場内からはヤンヤの歓声が沸き起こった。「五郎!」という声も混じっていた。俺は……晒し者だった。

 悲しかった。晒し者になったことではない。賞金を獲ることができなかった。お金を少女に送ることができない。それが無性に悲しかった。

 それに……もう次がないような気がして、それが悲しかった。

 レフェリーやスタッフたちが、ディックたちを俺から引き剥がし、俺の頭からタオルを掛けてくれた。だが、俺はそれを振り払った。もう遅い。手遅れだ。

 エプロンに立ち、俺は観客に頭を下げた。関係者席に座る協会関係者が失望した目で俺を眺めていた。

 もう一度頭を下げる。そして、頭を上げた瞬間だった。

「!」

 一瞬、眩暈がし、足に力が入らなくなった。場内が静まり返り、すぐに悲鳴と怒号に包まれた。

 目の前が真っ赤に染まる。

「……」

 俺は……眉間を撃たれていた。

 前のめりに倒れていく。体を支えてくれたスタッフも悲鳴を上げ、俺から離れていく。

 ひとりぼっちだ、そう思った。

 ガキの頃から天涯孤独で、キックボクサー引退後は組織という擬似家族に身を置き、寂しさを紛らわせた。だが、擬似家族は所詮擬似家族だった。

 俺はずっとひとりぼっちだった。

 そして今も……。

 ふと、あの男の顔が脳裏に浮かんだ。

 いや、男がいた。

 観客の中に身を潜めるようにし、俺を見ている。

 目が合った。

 男は少しだけ寂しそうな目になると、俺から目を逸らし、背中を向けた。そのままスッと消える。

 俺の見届けが終わったということだろう。

 ふと、あの男も孤独なのかもしれない、そう思った。そして男の場合、成仏できないのだからずっと孤独だ。

 俺は……天界へ行けるだろうか。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 少女に、本当に何の償いもできなくなると思うと、それがやけに悲しかった。

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