ヒットマン⑤

 翌日、俺は小切手を現金に替えると、それを少女が入院する病院へ送った。

 格闘技界だけでなく、世間までもが俺の話題でもちきりだった。

 俺には数々の取材が申し込まれた。様々な質問が飛んだが、その中で一番多かったのが、やはり俺の正体に関するものだった。

 俺はジムの意向通り、日系ブラジル三世だと言い、リングネームの「ザ・タイガー」を名乗り、声音を変え、アクセントを少しおかしくした。

 みんな俺の正体を知りたがった。俺がマスクを脱ぐ瞬間を隠しカメラで狙う者もいた。だから俺は自室でしかマスクを脱げなくなった。どこへ行くにもマスクをつけるしかなかった。

 だが、それが逆に好都合だった。ファンには注目されるが、警察や組織の目をかわせるからだ。

 ワンマッチに快勝したことで、俺はトーナメントの出場を許された。協会は大喜びだった。加え、新人選手の相手をさせたことを詫びてきた。

 優勝賞金五千万の大会が、俺が出ることで、一億円に跳ね上がった。スポンサーの数が倍に増えたのだ。協会は俺に感謝した。そして今後もこの大会に注目が集まるように、俺に優勝してくれと頭を下げた。

 もちろん、俺もそのつもりだった。久しぶりの試合に勝ったことで、自信が生まれていた。出場選手を見ると、プロレスラーやボクサー、キックボクサーから用心棒、元力士まで、そうそうたるメンバーが揃っていた。それが俺の闘志に火をつけた。

 俺はトレーニングに没頭した。今度はワンマッチではないので、勝ち進むにはスタミナが要求される。だからスタミナアップを目的とした練習を中心に時間を費やした。

 マスクを被ったままトレーニングを積んだ。当然ながら、マスクの有無で呼吸の楽さや、視界の広さが全然違う。スタミナをつけるためと、マスク自体に慣れるため、マスクを着けたままトレーニングを続けた。


 そして試合の日。朝早く目覚めた俺は、ストレッチをした後、ロードワークに出た。軽く走って体をほぐしたかったのだ。早朝ということもあり、人影がほとんどないため、俺はマスクを被らずに走った。

 初夏のさわやかな朝陽を浴びながら、公園の遊歩道を走った。と、ベンチに一人の老人が座っていた。破れた新聞に目を落としている。

 チラリと目をやり、前を通り過ぎようとした瞬間、老人の視線に気づき、俺の足は止まっていた。

 目を向ける。

「!」

 老人だと思ったが、年齢不詳だった。日焼けなのか、汚れなのか、顔は真っ黒で、夏だというのにナイロンのロングコートを羽織り、そのくせ、サンダルを履く足は素足だった。

 じっと俺を見てくる。その目は穏やかな湖のようで、見ていると吸い込まれそうになる。

 俺は、気味の悪さを感じたが、なぜか体を動かせなかった。

 男が口を開く。

「久しぶりだな……」

 やけにガラガラした声だ。

「!」

 その瞬間、男が「誰」だかわかった。

 あの男だ! 

 もう三ヶ月前になるだろうか、狙撃に失敗し、自殺を決意した俺を翻意、或いは救った男だ。

 そして驚いたことに、男が持つ古い新聞は、俺があの日ホームレスに貰い、そして格闘技協会の電話番号を千切ったものと同じものだった。いや、そのものだった。

「がんばっているじゃないか」

「……ずっと俺を見張っていたのか?」

 薄ら寒い気持ちになる。あり得ないが、捜査関係者かもしれないという疑いも生まれた。

「見張っていた……まあ、そうなのかな……俺にはあんたを見届ける義務があるからな」

「……」

 男が持つ古新聞。自殺の記事がある。男はその記事をじっと見ていたようだ。男は自殺したと言っていた。もしかしたら、この自殺記事は、男自身のそれなのか……。いや、まさか……。

「自殺志願者は、一度は自殺を取り止めたものの、しばらくすると繰り返し自殺を試みるという傾向がある。だからこうして見張っているんだ」

「……」

 しかし……それにしても……男の言っていることは本当なのだろうか。自殺を試み、成功し、死んだはずなのに、成仏できず、「こんなこと」をさせられていると言っていた。

 本来なら信じ難い話だ。だが、あの日、フェンスを突き破るように男の腕が伸びてきたのは事実だし、やけに手が冷たかったし、それに、あっという間に姿を消した。

 それらの事実が、俺に男の言葉を信用させていた。

 それに何より、男の言葉で俺は自殺を取り止めた。男の言葉には、それなりに説得力があったのだ。そう、経験者のような……。

 ということは、男にはあらゆる力があるのかもしれない。

 俺は口を開いた。

「あんた……一度死んだあんたが、こうしてこの世に現れる……あんたには色々な力があるんだろう? そのあんたの力で、少女を助けてやってくれないか。俺を見張る暇があるなら、少女を助けてやってくれないか! 少女が助かるなら、この命をくれてやってもいい」

 哀願するように言っていた。

 自分でも不思議だった。これほどまでに人を想う気持ちが俺にあったとは……。いや、当たり前のことかもしれない。何せ、自分が撃った弾が、何の罪もない少女の人生を狂わせようとしているのだから……。

 だが、俺の願いも簡単に却下された。

「それは無理だ。俺にはそんな力はない。天界の入口とこの世の間を彷徨うことしかできないのでね。それに……」

「それに?」

「少女を助けてくれとは、ムシが良すぎやしないか?」

「!」

「あんたが助けるべきだ。あんたが試合に勝って、少しでも治療の役に立つように、金を送ることだ。そして祈ることだ」

「……」

「じゃあな……試合、観にいくよ」

 男が立ち上がり、ダルそうに全身を引きずるようにしながら歩いていく。

 その背中に思わず声をかける。

「なあ、あんた……あんた、なんで自殺を?」

「……」

 男は足を止めたが、振り返ることも、俺の質問に答えることもしなかった。

 その時、風に舞った古新聞が俺の視界を遮った。反射的にそれを掴む。

「!」

 男の姿は消えていた。

 手にした古新聞に目を落とす。

「……」

 自殺の記事。だが、それからは、それが男の自殺記事なのかも、詳しい自殺理由も原因すらもわからなかった。

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