ヒットマン③
俺はとりあえず死ぬことをやめた。
何かできるわけでもないが、少女のことが気になった。それに……男が言った、「自殺はやめろ。自殺は最悪の『犯罪』だ」という言葉が脳裏から離れなかったのだ。
色々疑問はある。
男は自殺をしたと言った。確実に死んだとも。だが、成仏できないとも言っていた。「こんなこと」をさせられていると。
一体、何だったのだろう?
夢か幻でも見たのだろうか?
いや、違う。現実だ。それが証拠に、肩にはまだ男の冷たい手の感触が強く残っている。
それに、自殺を取り止めた瞬間、眼下の景色に足が竦んだ。あれほど、ホッとした気持ちに包まれた景色が、今や地獄に見える。
男は実際に「いた」のだ。男は俺の心を動かしたのだ。
俺はビルの高さに震えながら、フェンスを乗り越えた。「生」の方に。
男が言ったように、少女は生きていた。だが、重体で、予断を許さない状況らしい。
弾は大脳と小脳の隙間に入り込んでいるらしく、取り出せない状態だそうだ。意識はいずれ戻る可能性はあるが、そのまま植物状態に陥る場合もあるそうだ。
俺はそれを、翌朝の新聞で知った。
東京へ向かう電車の中でだ。とにかく逃げなければならない。いや、逃げるというより、人の群れに紛れ込まなければならない。単純だが、人の多さを考えた時、東京が真っ先に頭に浮かんだ。
かつてキックボクサーとしての将来を嘱望されていた俺は、東京で生活していた。だから多少土地鑑があったということもある。
ただ、東京へ出てどうするのかという問題が残っていた。
昨夜、あれから俺は、非常階段を降り、エレベーターホールへ向かったが、警察も到着しており、逃げ出せる状況ではなかった。
仕方なく屋上へ戻り、隣の雑居ビルへ飛び移り、螺旋階段で地上まで降りて逃走した。
よく警察が屋上へ来なかったものだ。まだ現場保存とかいう段階だったのだろう。非常線も張られていなかった。
捕まっていれば……逮捕・拘束され、罪を償うことになるのだろうが、それすら不可能かもしれない。何らかの手段で敵か味方かに殺されるだろう。組織にかかれば、警察や刑務所の中でさえ安全ではないのだ。
殺されたら元も子もない。
少女に対して、何ができるかわからないが、死ねば何もできなくなる。何かするために、昨夜自殺を思い留まったのだ。
さて、何をする?
電車に数時間揺られながら考えたのはそのことばかりだ。
そして後悔……ヒットマンとして、与えられた仕事さえ満足に遂行できず、何の関係もない少女を奈落の底に突き落としてしまったという後悔。
東京駅に電車が到着しても、答は出なかった。
いたずらに時だけが過ぎていく。
俺は焦った。こうしている間にも、少女は死に近づいているかもしれない。だが、答は出ない。
俺はその晩、ホームレスで溢れている公園に泊まった。
春とはいえ、夜は冷え込む。そんな俺に、古株のホームレスが古新聞をくれた。
「これで少しは寒さをしのげるよ」
「……あ、ありがとうございます」
俺は素直に頭を下げ、新聞をもらった。ベンチに横になり、新聞を布団代わりにする。だが、野宿ということと、少女のことが気になって眠れない。俺は起き上がり、何気なく古い新聞をめくった。三流のスポーツ新聞。読みたくもない記事に次々に目を通す。知っているニュースばかりだった。日付をみると一年前のものだ。
芸能人のゴシップ。政治家の横領。焼身自殺の記事……。どれもこれも知った記事だ。自殺の記事で、昨夜の男のことを思い出したが、すぐに脳裏から消えた。
ひとつの広告に目が行ったからだ。
『出場選手募集!』
新たに生まれる格闘技団体が、異種格闘技戦の出場者を募集していた。トーナメント優勝者には賞金一千万円が贈られることになっていた。それを見て、心が騒いだのだ。
だが、もう一年前の記事だ。
しかし、この大会なら知っている。この大会は好評で、第二回、第三回と回を重ねているはずだ。そして今は異種格闘技という呼び名ではなく、総合格闘技と呼ばれ、大衆に認知されている。
「賞金稼ぎか……」
バカな俺はバカな頭で考えた。そしてすぐに結論を出した。バカな頭でいくら考えても無駄だからだ。
「少女に金を送るしかないな……」
金があれば、名医に手術を頼めるかもしれない。また、日本では無理でも、海外ならものすごい治療法があるかもしれない。
俺には自信があった。ブランクがあるとはいえ、三十になったばかりの俺はまだまだ鍛えれば勝てる、そう信じていた。
そして、一度大会をテレビで観たことがあるが、基本的に打撃の強い者にとって有利なルールとなっている。離れた状態から試合が始まるからだ。ただ、組み合った場合、勝ち目はないだろう。しかし、要は、相手に掴まらなければいいのだ。掴まる前にパンチとキックでノックアウトする。それしかない。
考えると昂奮してきた。眠れそうにない。俺は『出場選手募集』の記事の部分を破り取り、公園を出た。
背後で、あの男が、残された新聞の『焼身自殺』の記事をぼんやり眺めていたなんて知る由もなかった。
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