四 煮売屋

 神無月(十月)二十二日

 昼八ツ(午後二時)。穏やかな小春日よりだ。

 お藤は、身元引受の書付を持って亀甲屋を出た。この日のお藤はいつものように、紺地に薄紫の小紋の小袖に雪駄履き、髪は玉結びで吹前髪だ。

 四半時たらずで北町奉行所へ書付を届けて人別帳の記載を済ませ、踵を返して本町から通旅篭町の通りを歩いて両国橋の西詰めへ向かった。


 両国橋西詰めの通りは狭い。火災や地震や天変地異の際に、少しでも早く江戸市中から離れようとする人々がいっきにこの狭い通りに集まって混乱する。

 公儀(幕府)は『非常時の混乱を避けるために、両国橋西詰めの通りを浅草御門の周囲まで広小路に拡張し、さらに和泉橋から昌平橋の北岸と、筋違橋御門の周辺の通りも拡張する』との沙汰を下した。着工は一年後の来年長月(九月)だ。



 夕七ツ(午後四時 申ノ刻)。

 お藤は両国橋西詰めの通りに着いた。

 両国橋西詰めの通りは、早くも引越しする商家の手配で、運脚や大八車引きと大八車や、馬子と馬、棒手振り、煮売屋などでごった返している。

 お藤は人混みの中をかき分けるように両国橋西詰めへ歩いた。


 両国橋の袂に着くと、お藤は担い屋台の傍にある飯台の樽に腰を降ろした。お藤を見ると周囲の運脚や大八車引きや馬子や棒手振り、商家の者たちが近くに来て、親しくお藤に挨拶した。

「蛤と冷酒をください・・・。藤吉。手があいたら話を聞いておくれ」

 股引きを履き、小袖の裾を帯にはしょった腹掛け草鞋履きの煮売屋は、お藤の実の弟で藤吉といい、住いは押上村だ。押上村の香具師の又三郎と親戚づきあいの間柄だ。


「へい。お待たせっ」

 藤吉がお藤の飯台に、串に刺した大蛤の煮付け三本が載った皿と冷や酒の茶碗を置いた。

「これを・・・」

 お藤は藤吉に紙包みを渡した。一朱(二五〇 文)を包んである。お藤は冷や酒を飲んで蛤を摘まんだ。伝える事は直に話すしかない・・・。


 客足が減った。藤吉がお藤の隣の樽に腰を降ろし、早めの夕飯に握り飯を食いはじめた。お藤は藤吉を見ずに囁やいた。

「来月から、亀甲屋の奉公人の皆が、隅田村の肥問屋吉田屋に奉公する。亀甲屋に奉公していたときと同じ扱いだ。ゆくゆくは、仁吉が吉田屋の大番頭になる・・・」

 お藤は『仁吉が吉田屋の大番頭になる』を強めて話したつもりだった。


 藤吉が慌てて、声を潜めた。

「それなら、奴の思う壷だぞっ」

「心配いらぬ。頭の甥を騙って元締の座を手に入れた奴を許すわけにはゆかぬ。

 殺られる前に殺る。又三郎の叔父御にも、村の世話役にも、話をつけた。

 一年以内にけりをつける。五年の所払いでも、ここに住んでいるようなものだ。それまで、叔父御ともども辛抱しておくれ」


「わかった。詳しいことは叔父御に訊く。

 くそっ。また、邪魔者が来やがった・・・」

 そう言って藤吉が西詰めの通りの西を見た。若い無頼漢が三人、通りの運脚や大八車引きや馬子に罵声を浴びせ、大八車や馬などを蹴飛ばしたり叩いたりして、両国橋の西詰めに近づいてきた。


「藤吉っ、屋台を守れっ。他の煮売屋にもそう伝えろっ」

 お藤は藤吉を見ずにそう言い、蛤を食って冷や酒を飲んだ。

 藤吉は屋台に戻り、他の煮売屋に用心するように伝え、屋台にある無頼漢除けの棍棒を取った。他の煮売屋も棍棒を手にしている。



「おやおや、姐さん。俺たちの島に挨拶とは、すみませんねえ」

 無頼漢の一人がニタニタ笑いながらお藤に近づいた。

 お藤はこの無頼漢たち京助と半二と助六が、新大坂町の廻船問屋吉田屋に出入りしているを知っている。亀甲屋がある田所町と吉田屋がある新大坂町は通りを隔てて隣だ。

「ここ両国橋西詰と馬喰町が吉次郎の島なら、いつから吉次郎は無宿人の香具師におなりなのかえ・・・」

 お藤は冷や酒を飲み干し、大蛤を刺していた竹串を握った。竹串は太めで八寸ほどの長さだ。


「なんだとっ。吉田屋の奉公人になりさがった分際で、偉そうなことを抜かすなっ」

 そう言うや、無頼漢の京助は懐から匕首を取りだし、樽に腰を降ろしているお藤の顔を薙ぐように匕首を振りまわした。背後の二人も匕首を振りまわし、周囲に群がる男たちを遠ざけている。

 お藤は一瞬に京助の匕首から身を躱し、冷や酒の茶碗を京助の顔に投げた。茶碗がガツンと音をたてて京助の顔に当たった。京助はひっくり返った。

 それを合図に、周りにいる者たちが天秤棒や竹竿や棍棒で三人を叩きのめした。


「そこまでだっ。私が一部始終を私が見ていたっ。

 岡野っ、松原っ。縄をかけて引っ立てろっ」

 与力の藤堂八郎の指示で、同心岡野智永と松原源太郎の手下の岡っ引きたちが無頼漢三人を捕縛した。


 神無月(十月)の夕七ツ(午後四時)過ぎは、与力の藤堂八郎と同心たちが、広小路に拡張が決った両国橋西詰めの通りを見まわる刻限だった。

「お藤。心配するな。非はこの者たちにのみある。ここに居る皆が証人だ」

「ありがとうございます」

 お藤は与力の藤堂八郎に深々と御辞儀した。

「皆の衆っ。いざというときは、証人を頼むぞ」

 藤堂八郎がそう言うと、周りから、

「へいっ」

 と声が響いた。

 その声を聞きながら、藤堂八郎は同心たちと、無頼漢を引っ立てていった。


「姉ちゃん。藤堂様は何者だ」

 藤吉は与力の藤堂八郎を見送りながら呟いた。

「我らを隅田村へ、江戸所払いにしてくれた恩人だ・・・」

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