三 部切船

 翌日。神無月(十月)二十一日。

 昼九ツ半(午後一時)。

 亀甲屋の雨戸が叩かれた。仁吉は店から土間に降りて草履を履き、店の障子戸を開けて雨戸の節穴にはめてあるほぞを抜き、外を確かめて心張り棒を外し、雨戸を開けた。


 吉次郎が作り笑いを浮かべて店の上り框の座布団に座った。出されたお茶を飲む吉次郎の顔は、慣れない作り笑いで今にも引きつりそうだが、本人はその事を仁吉が気づいていないと思っている。

「仁吉さん。今日は良い返事を聞きに来ましたよ」

「はい、お受けいたします。

 それで、私どもはいかようにすればよろしいでしょうか」

 仁吉は商売取り引きするように、真剣な眼差しで、お茶を飲んでいる吉次郎を見つめた。


「この御店は今月でお取り潰しになる。来月までに隅田村の大川の岸辺の肥問屋吉田屋に移って欲しいのだ。御店の裏に長屋があるからそこへ越すといい」

 吉次郎は茶碗を盆に置き、懐から書付の包みを出して仁吉に渡した。

「これは、御上へ届ける身元引受の書付です。みなさんの名を書いて町奉行所へ届けてください」

 吉次郎の態度が、今までのへりくだったものから、丁寧ではあるが、命令口調に変わった。この態度から丁寧な部分を取ったのが本来の吉次郎だろう。仁吉はそう思った。

「わかりました。来月までに引っ越しますので」

 仁吉は何食わぬ顔で書付を受けとった。

「話を聞いていただき、私は大助かりですよ。では、待っていますよ」

 吉次郎は笑顔でそう言い、その場を立って店から出た。


 仁吉は店の雨戸を閉めて戸締まりし、お藤か居る店の奥の座敷に座った。

 お藤は仁吉から書付を受けとって仁吉に言った。

「香具師の手蔓から隅田村の弥助さんに話をつけた。百姓は我らの味方です」

 弥助は隅田村の百姓を代表している世話役で、吉次郎の肥問屋吉田屋の肥売捌人を相手に肥商いの値段交渉をしている。弥助が肥商いの相手を吉田屋から他の店に変えると言えば、吉次郎は弥助の言い分を聞かぬわけにはゆかない。


 お藤が呟いた。

「御店の主は隅田村へ舟で渡る。大川では舟の事故も起る・・・」

 仁吉が不敵な笑みを浮かべた。

「大川は部切船へぎりぶねが数多く行き来して、事故はつきもの・・・」

 部切船は下肥を運ぶ舟、肥船こえぶねだ。糞船くそぶねとも呼ばれる。

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