重力のない場所

伊佐木ふゆ

重力のない場所

 きっきっ、という音がする。喉からせり上がってくる呻きに近いそれは人から出された音だった。

「きっ……きっ……君に何がわかるんだ!」

 ようやく押し出された声に震えながら男子は叫ぶ。自分のことを抱き締めながら、ぷるぷると震えているのは小動物のようだった。

 彼が叫んだ先には長躯の女子が居た。ロングの髪を結わき直している。とんとん、とつま先で床を小突いて上履きのずれも直した。

 女子ははあ、とため息を吐いてから男子の方を見る。

「阿刀田くんに言われたくない」

 ある種軽蔑するような瞳で女子は言う。その返事について、阿刀田と呼ばれた男子はぴったりと身につけられたネクタイを縋る想いで掴んだ。

「でっ、でも、宮北さんにだって、おれは」

「はあ?」

 釘を指すかのように宮北が阿刀田をけん制する。ひいっ、と情けない声が阿刀田から漏れる。

 宮北は二度目のため息を吐いてから適当な椅子を引き寄せて座った。床にしゃがみこんで震えている阿刀田とは大違いだった。

 彼女はじいっと下を見る。阿刀田の方を見る。

「君の言う祝福っていうのは、君を助けるものでしかない。それって祝福じゃないんだよね」

 きっぱりと宮北が言うので、阿刀田が委縮する。その様子を見て、さらに宮北が呆れる。その繰り返しだった。

「私たちの哲学に変な教義を持ち出さないで」

 宮北はある宗教家の娘だった。

 独自宗教だった。それゆえに彼女はしばしば勘違いを起こされていた。宗教と聞いて身構える人間は多く、阿刀田もその一人だった。阿刀田は宗教を持つ宮北のことを恐れていたし、何より近づきたくないと思っていた。宮北の家で何が起きているのか。彼女が食事をする前に行う、弁当に一本線を引くような動作について、何をしているのか、その意味はなんなのかを問い質すのは恐怖だった。

 けれど、阿刀田は日々の生活にさらなる不安を抱えていた。漠然とやってくる不安について、何か救いが欲しくなってしまった。頭の中を蠢く虫のような気配について、きちんとした説明と意味を求めてしまっていた。

 洗いざらい阿刀田は宮北に話した。放課後に彼女を呼び出すことはクラスの中ではタブーにされていた。しかし関係ない。阿刀田は何より自分の問題が解決されることを望んだ。

「だから、宗教じゃなくて哲学。確かに宗教はやっているけれど、私がお弁当に指で一本の線を引いてから、その蓋を開けるのは哲学なの」

「しゅ、宗教も哲学も同じようなものだろ! 宮北さんならわかるんじゃないのか。おれの、おれの気持ちが……」

「わかんない。さっぱりわかんない。虫とか不安とか、誰でもあるだろうし、極度に高いのならば病院に行くべきでしょう」

 阿刀田にはわからない。哲学と宗教の違いも、自分が病院に行くべきなのかそうでないのかも。だからこそ宮北に助けを求めたのに。

 彼は宮北を薄く睨んだ。ふん、と宮北は彼を睨み返す。

「君の話を聞いて思ったことを話すなら、救いの求めすぎ。求めてばかりじゃ幸福も何もない。きっと手にした幸福だって君は違うって言い張って捨てるんでしょうね。そんな未来が見える」

 宮北は鋭く阿刀田を言葉で切った。決して彼女がそうしたいわけでもなく、事実の列挙は間違いなく阿刀田を切り裂くものだった。

「で、でも人間そんなものだろう。救いを求めて何が悪いんだ」

 阿刀田はなんとかして引き下がらない。必死に荒い息を整えながら、彼はせめてもの抵抗をする。

 面白くない、と宮北の顔には堂々と書いてあった。そのことについて宮北は悪びれもせずに「あっそ」と吐き捨てた。

「別にいいと思うけど、やりすぎってものを知ってる? 救われたがりをわざわざ助ける人なんて、道楽なんじゃない?」

「ど、道楽」

「それって君が考える救いなの? 阿刀田くん」

 さらに宮北が阿刀田を追い込む。阿刀田は涙目になっていた。

 ――どうして助けて欲しいだけなのに、こんな思いをしなくちゃいけないんだ。

 阿刀田はただ助けて欲しいだけだった。

 宮北は今にも泣き出しそうな阿刀田に容赦はしなかった。

「自分を持ちなさいよ」

 吐き捨てて、視聴覚室を後にするつもりだった。

「ま、待ってくれよ」

 しかし阿刀田が宮北を止めた。

 彼は目元を擦り、なんとか涙を止めていた。

「なら教えて欲しい。宮北さんの哲学について……その、参考にだ! 参考にしたいだけなんだ。だから教えてくれませんか。おれに、君の哲学について……」

 細い声だった。今にも途切れそうな声を必死に繋ぎ合わせた阿刀田に、宮北は何も言わなかった。

「宗教と哲学を混同しないのならいいわ」

 宮北はあっさりと了承した。え、と阿刀田が声を落とす。

「そうやって最初から謙虚でいればいいのにね」

 ふん、とそっぽを向いて宮北は視聴覚室にある机と椅子を引っ張り、向かい合わせになるよう二人用の席を作った。

「早く座って」

 宮北は阿刀田を席に座らせる。

 おずおずと阿刀田は宮北の指示に従った。宮北の向かい。カーテンを透けて通る夕暮れが見える席だった。

 宮北が座る。鋭い目つきで阿刀田を見つめている。

 視聴覚室の室内温度を適温にするための冷房が動いている。ごうん、と風向きを変更する音と共に、宮北は喋り始めた。

「私は……シモーヌ・ヴェイユみたいな思想であれと思う」

「シモーヌ・ヴェイユ?」

「知らなくていい。とにかく、重力と恩寵、それから真空について話している人が……哲学者がいるのだとわかっていればいい」

 きっぱりと宮北は言う。元から余計な話はしないつもりのようだった。

 阿刀田がシモーヌ・ヴェイユ、ともう一度呟く。人の名前だと理解していても、慣れない響きだと思わずにはいられなかった。

「私はその中でも真空と恩寵について思っていることがあって……そう、恩寵は真空に潜んでいるの。真空を通して私たちのところへやってくる。恩寵は祈りなどではやってこない。自然に落ちるように降ってくるもの」

 彼女がすらすらと語るので、咄嗟に思いついた話ではないようだった。

 阿刀田には哲学がわからない。だからシモーヌ・ヴェイユという人が哲学者なのだろうことしかわかっていない。それに今、彼女が話していることだって、宗教となんら変わりようがないじゃないか、とさえ思ってしまう。

 けれどそのことを素直に話したら、宮北が怒号を放つことが明瞭だったので、阿刀田は黙って続きを聞くことにした。

「自然に落ちてくるものについてどうやって知る、気づくのか? それは行為に寄ると思うの。自らを閉ざすような無関心などではなく、時折行う開放的な行為に基づいて、恩寵に人は気づく」

「時折? いつもじゃなくていいってこと……ですか?」

「そう。時々の開放によって、ああ、今自分は恩寵に包まれている、と気づくわけ」

 つらつらと宮北が話す。

 宗教家の娘。

 そのレッテルを貼られてもなお、彼女は自分の哲学を持って生きているようだった。

 阿刀田は彼女が遠い存在だと改めて気づかされる。阿刀田よりきちんとしていて、しゃんとしている。そのことについて羨ましいだとか、憧れるだとか、そういったことは不思議と思わなかった。むしろ、遠すぎて目が眩む感覚が近しい。

「続けて平気?」

「あ、うん。へ、平気」

「じゃあ続きから。恩寵は活動によって滑り込むものなのよ。真空っていう己の閉ざしについて、ふとした時に陽光みたいに落ちるもの。それに気づけるかどうか、というものは、自分の開閉しかない。自分で気づくしかない、というわけ。……阿刀田くんは今、私から見ると閉ざされている状態ね」

「閉じているっていうのは……なんか、わかるようでしっくりこないけど、まあ、そんなもん、かも」

「私から、っていうところに気を付けて欲しいな。他人の視点は恩寵と真空に関係がないの。あくまで私の哲学と、それを持つ私からの観点でそう言っているだけで、本当は違うかもしれないんだから」

 宮北が訂正する。

 阿刀田は己を見つめ直してみる。確かに救いが欲しいし、不安や苦しさについていつも何か手助けにならないかと思っている。けれど、それは願いすぎだと宮北に言われ、この恩寵と真空の話を聞いたとき、阿刀田は果たして自分が開閉できているのか、と振り返った。

 ――多分出来ていないんだ。だから恩寵にも気づかない。

 恩寵という言葉の特別さについて、阿刀田も大切にすべきだと思っている。きっとそれは儚く美しくかけがえがないものだ。しかし、今の自分には手に入らないものだと思わされる。宮北の哲学によれば、の話だが。

 宮北の哲学がどのようにして作られたかについて興味があったけれど、阿刀田は問えなかった。阿刀田には己の開閉について振り返る余裕しかなかった。

「おれが、開閉を心がければ……恩寵にも気づく?」

「そうなんじゃない? まあ、この哲学に影響されて、そう考えるのならね」

「救いに気づく?」

「恩寵が救いかどうかなんて、私の知るところじゃない。だから堂々としていればいい。私は関与しないから」

 あくまで宮北は自分の哲学を話しただけに過ぎない。彼女は阿刀田を救おうなどとは思ってもいないのだから。

 彼女はふう、と息を吐いて席を立った。

「もういい? 悪い噂が出る」

「あ……宗教勧誘」

 宗教家の娘であるから、自分の家を繁栄させるために常に勧誘を怠っていないのだ、と彼女には噂がされていた。

「ま、まってくれ。まだ聞きたいことが、一つだけ」

「何?」

「お弁当」

「うん?」

「お弁当に一本線を引くのは……己の開閉のためじゃない、んじゃないか?」

 それは阿刀田がたどり着いた答えだった。

 恩寵が己の開閉について降り注いだことを気づくものだったとして、弁当箱に一本線を引くような行動は、哲学に似つかわしいとは思わない。己の開閉、という言葉にそぐうものではないような気配がしている。

 ごく、と唾を飲み込みながら阿刀田は宮北の言葉を待った。

 すると宮北は爆笑し始めた。あはは! と笑いながら自分で引き寄せた椅子と机を片付けてしまう。阿刀田は戸惑いながらも座っていた椅子を彼女と一緒に片付けた。

「そうね。そうかも。あーあ、宗教ね。確かにそれは哲学じゃなくて宗教。あー最悪。あんな宗教に肩入れしてたんだ、私」

「肩入れ……? 自分の家のこと、だろ? 別にいいんじゃないか?」

「いいわけないでしょ。嫌ってるんだから」

 宮北が言い返す。

 伏し目がちに宮北が夕暮れの透けたカーテンを睨んだ。

「この世にあるのは恩寵だけ。救いなんてね、差し伸べられるものじゃないんだよ」

 そう話す彼女のことが、阿刀田にはきりりとしていて、美しいもののように思えた。

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