水泳

 飛び込む前、台に上がった瞬間の集中は心地いい。

 自分の目の前には泳ぐ為のプールだけで、台に足をかけて、ガタンと音が鳴った時、空気が張り詰めて全身がリラックスなのか緊張なのか分からない、不思議な状態になる。


世界が狭くなる瞬間。

この瞬間が私はとても好きだった。


ピッ


 一瞬の静寂と共に光と電子音が鳴り響き、私は台を蹴る。


 水中でドルフィンキックをして水面へ。とりあえずは何も考えずにひたすら手足を動かす。

 泳いでいる間は自分が水を掻き分ける音と頭が水を切る音しか聞こえなくて、頭の中の声だけがやけに大きく響く。


「早く進め」


 クイックターンをしてまたドルフィンキック、再浮上。

 そろそろ苦しい。フォームが崩れてくる。息もしたい。でも息継ぎをすると遅くなることを私は知っていた。だからなるべく我慢して我慢して腕を前にもっと水を掴めと頭の中が叫んでいる。


その声がこだまする。


 二の腕に力が入らないかもと思った時には残り5mを告げるラインが見えていた。頭も体もぐちゃぐちゃで、でもなんとかしてゴールへ。1秒でも早くタッチする一心でもがき苦しむ。


壁に手がぶつかった瞬間、世界は広がる。


 横のレーンの「よっしゃ」と言う声とガッツポーズ、応援席からのおつかれーと言う声。台の後ろで次の選手が身体を叩く音。


 プールから上がった私は無言で礼をして、唇を噛み締めるのみだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る