3,漆つの結界
翌日の放課後、僕は帰路につかずにとある場所に向かっていた。
足が弾み、自然とスキップになって、鼻歌を歌いたくなるような晴れやかな気持ちでいた。
彼と握手を交わしたそのすぐ後、強制下校を告げるチャイムが鳴り響いた。
「今日はもう遅い。また明日、誰も居ない所で続きを話そうか」
そう言って昨日は解散したのだ。
僕が向かっているのは、校舎四階の空き教室。
昨日起きたことが夢じゃない事は、受けた痛みが告げている。
今の僕には、睡眠不足による倦怠感すら感じない。
跳ねるように階段を駆け上がり、勢いよく空き教室の扉を開けた。
夕暮れに照らされた教室の窓際にもたれながら、空中に浮かせた半透明のディスプレイを操作する魔使君がいた。
「ごめん! 掃除当番のせいで遅くなった!」
「いや、構わない。どうせアイツが帰ってくるまで話は進まないのだから」
画面から目を離すこと無く、彼は僕の遅刻を許してくれた。
……それより。
「……もうあの変な喋り方はしないんだね」
荷物を適当な机に置きながら尋ねる。
変な喋り方。魔使君が転校してきた時の、なんて言ったか直接脳内に叩き込まれたかのような喋り方。
今はしっかり彼の声を聞けている。
「あぁ、もうその必要はないからね」
あの変な喋り方。あれは選定を兼ねていたそう。
魔力で教室内にいた人間の記憶を少し改竄する。普通の一般人であれば違和感すら覚えず気づくことはない。
だが、魔力を扱う者、魔力に耐性を持つ者は違和感を覚える。
そうして
「この指輪もそうだった」
そう言って彼は首元からかけている指輪に触れる。宝石を扱うかのように、優しくゆっくりと。
僕が指摘した時、確かにあった指輪が消えていたのはそう言う事だったのか。
質問に答え終えた彼は、ディスプレイとにらめっこを再会した。
――ホントに誰か来るまで待つんだ……。だったら。
「ねぇ、他にも色々聞いてもいい?」
「どうぞ」
二つ返事で返す。
ならば。昨日目的を優先したせいで聞きそびれた事を聞いていこう。
まず僕が聞いたのは、彼が調べているという怪異について。
彼を手伝うなら、優先して知っておかなければならない。
「怪異とは何か。端的に言えば、魂の成れ果てだ」
恐怖。悲哀。怨恨。人間は生きているだけで負の感情が滲み出す。
死して尚この世界を彷徨う人の魂がそれらを纏い、形を成したものを怪異と呼ぶ。
またごく稀に、非常に優れた知能を持つ者がいるそうで。
そうした奴らは人語を理解しているため、意思疎通を図ることも出来るのだとか。
確かに昨日のバケモノも「タスケテ」とは言ったが、それは獲物を釣るためで、意思疎通が出来るレベルでは無かった。
つまり今後は、あれ以上のバケモノと対峙する可能性が高い。
――だったら次に僕が聞くべき事は……。
「はぁいバルバトス、ただいま戻りましたぁ!」
口からでかけた言葉は、勢いよく開け放たれた扉と軽快な声にかき消された。
振り向くとそこには、高身長で細身の青年がいた。
フード付きの真っ黒なローブに身を包み、深緑の髪が同色の瞳を覆い隠している。
ローブの下に纏う服も全て黒を基調としており、夜闇に紛れれば姿を完全に隠せるだろう。
まるでゲームに登場する狩人のような格好。
そして何より目を引くのが、側頭部から後方へ伸びている、二本の角。
昨日現れたバエルと呼ばれた者と同じ、全てを呑みこむ泥のような涅色で、禍々しさを放っている。
「——あぁ、君が例の」
そう言って、僕の方へ真っ直ぐ向かってくる。
髪に隠れた深緑の瞳に、僕の姿が映される。
そこから放たれる、品定めするかのような視線が、僕に深く突き刺さる。
しかしそれは一瞬で。
僕へ向けられた視線はすぐに消え、気がつくとニカッと晴れやかな笑顔を向けられていた。
「初めまして、バルバトスで〜す。お兄サンの事は気軽に呼んで。堅苦しいのは苦手なんだ」
そう言って右手を差し出した。
突然の変わりように戸惑いつつも、差し出された手を握り返す。
そして理解した。もう時間切れだと。
窓際にもたれていた魔使君がこちらに向かって歩いてきている。
彼が待っていたのはバルバトスだったんだ。
もう答えてくれない。いや、質問すら出来ないだろう。
この世界に居続けるため、魔使君の側にいるために彼の目的を最優先で聞いた。
彼に見限られることのないよう、一分一秒でも長く留まり続けるために、これから何と対峙するのかを聞いた。
この判断は間違っていないと思っている。
だからこそ聞けなかった。あの力は何なのか。
そして、君は一体に何者なのか、と。
だが、分かったこともある。
今目の前にいる『バルバトス』、そして昨日現れた『バエル』。
どちらとも、『ソロモン72柱』にて語られる悪魔の名だ。
にわかには信じがたいが、昨日のバケモノ……怪異という前例がある。それに両者から感じる格は、明らかに人では無い。
もし仮に悪魔だったとするなら『魔使恵』とは何者だ?
近くにいれば、いずれ見えてくると思っていた。
だが、見えない。彼の底が見えない。見れる気がしない。
「――バルバトス、報告を」
「はぁ〜ぃ」
僕の隣まで来ていた魔使君が指示を出す。
おっと、思考に夢中になっていた。聞き逃さないよう、しっかり聞かなければ。
「この学校に七カ所、段違いに強固な結界がありました。と言っても、内側に封印している存在が外に出ないようにする代物で、外よりも内の強度を優先しているタイプでしたね。なんで強力な結界ではあるんですけど、無理矢理こじ開ける事が出来るかと。んでその場所が――」
音楽室。
中央階段。
屋外プール。
理科室。
踊り場の大鏡。
美術室。
女子トイレ最奥の個室。
印象に残るのは、やはり最後の『女子トイレ最奥の個室』。一つだけ随分具体的だ。
「なんか、学校の怪談七不思議に出てきそうな場所だね」
何気なしに言っただけだった。思ったことを口にしただけ。
ただ、それだけなのに。
時間が止まったかのように空気が凍り、静寂が支配する。
バルバトスと話していた魔使君の口が止まる。そしてゆっくりと顔を向け――。
「怪異とは、人間の魂が負の感情を纏った存在だ。それ故、日本だけでなく世界中に存在している。怪異について調べたいなら、転校してまで物之木高校に来なくてもいい。だが私はわざわざこの学校に来た。何故だと思う?」
そう僕に問いかける。エメラルドのような翠眼が、真っ直ぐ僕を見据える。
彼は僕を試している。そう感じた。それが真意かは分からないが、彼が僕に問いかけたんだ。
――期待に応えたい!
今出ている情報を整理しよう。
学校各所に張られている結界。
内側にいる存在とは……おそらく怪異の事だろう。
その結界が張られている位置。その数。怪異を調べたい魔使君が調べに行かせるぐらいだ。結界の中にいるのは特別な怪異――……?
————……まさか。まさか。
「まさか、その結界内に七不思議が――――」
試行の末に辿り着いた答えを口にしようとしたその瞬間、視界の端にあり得ないモノが映った。
僕たちを挟んだ先、空き教室の中央にさっきまで存在しなかったモノ、ここで芽吹くはずのないモノがそこにあった。
直立した茎に、ラッパ状の鮮やかな紅い花を持った植物――……。
「ホウセンカ……?」
ただ教室に咲いている事だけが異常なんじゃない。
問題はその大きさだ。見上げるほど大きい。人間サイズの花弁を携えている。
一瞬。魔使君にコレは何か聞こうと視線を向けたほんの一瞬。
それだけの短い間にホウセンカは成長し、風船のように膨れ始めた。
ホウセンカ最大の特徴。より遠くに種子を飛ばすため、実を弾けさせる。これほどの大きさのホウセンカが弾ければ、どれほどの威力が――。
「バルバトス――」
半ば思考停止状態だった僕を、魔使君が突き飛ばす。後方へ飛んだ僕の体を、バルバトスが受け止め――――……。
瞬間、ホウセンカが爆ぜた。生命の危機すら感じさせる爆音と、肌に突き刺さる強烈な熱。むせ返るほど濃い硝煙の匂いと、視界を潰す砂煙。
「――……げほっ、ごほ」
バルバトスが庇ってくれたおかげで、何とか咳き込む程度で済んだ。
爆発に巻き込まれないよう外套にくるんでくれていた。
それに加え、傷つけないよう、最低限の力で、優しく抱きかかえていた。
「ごめん! 咄嗟過ぎて勢いを殺せなかった」
バルバトスは僕を抱いたまま、タハハとばつが悪そうにはにかむ。顔を上げると、粉々になったドアが辺り一帯に散乱していた。
「あ、ありがとう、ございます……」
どういたしましてとそう言って立ち上がり、服についた埃を払う。ドアが粉々になる勢いでぶつかったはずなのに、体には傷一つ付いていない。
「よし、無事だね」
もうもうと爆煙が立ちこめる教室から、魔使君が現れた。僕と違って爆発が直撃したのに、こちらも無傷。服に砂埃すらついていない。
「この砂煙に乗じて逃げましょ!」
「残念だが、それは無理だ。……ほら、来るぞ」
教室から漏れ出た爆煙越しに、うっすらと人影が映る。それはゆっくり少しずつ、
一定の足音を奏でながらコチラに近づいてくる。
「――結界の周りを嗅ぎ回る魔の首魁。ようやく尻尾掴んだわよ、魔使めぐ………………吉岡君?」
「――……委員長?」
爆煙の中から姿を現したのは、クラスの委員長、
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