2,魔使恵

 助けて欲しい?


 彼はそう言った。耳鳴りが反響する中でも、はっきりと、そう聞こえた。


 ……もちろん答えは決まってる。

 けれど、

 取り戻したとは言え朦朧とした意識の中、言葉を言葉として発声出来ない。

 動くことしら出来ない僕は、もはや口を動かすことすら難しい。


「……ぁ、ぃ」


 それでも。それでも持てる全てを振り絞り、ただ一つの望みを。声に。


「――ぃ生、生き、……だい」


 その瞬間、全てが無くなった。いや、

 音をかき消す耳鳴りも、視界を覆い隠す靄も、全身を包んでいた激痛も、動くことを許さなかった痺れも。

 冷えつつあった僕の体は熱を取り戻し、朦朧とした意識は完全に回復。

 ついでにズタズタになった右手も完治していた。


 顔を上げると、魔使君が怪しく微笑んでいた。


「後ろで


 そう言って彼は、化物へと向き直る。

 彼を追うように目を向けると、バケモノはガタガタと震えている。

 恐ろしいモノでも見ているかのように、喰われるのを待つ小動物のように。


「見たまえよ。恐怖心から生まれた存在が、恐怖に震えている。滑稽だな」


 立ち上がる僕に向けて淡々と語る彼は、バケモノを見ても驚きはしない。

 確実に何か知っている。


 そう確信したとき、バケモノが動き出した。

 叩き潰そうとその長い手を鞭のように撓らせる。

 天井を破壊しながら僕めがけて振り下ろされる。


 まずい反応が遅れた

 回避

 間に合わない




 ――死。





 いつまで経っても振るわれない攻撃に、いつまで経っても訪れない痛みに、恐る恐る反射的に閉じていた目を開ける。

 僕に振り下ろされるはずだったその手は、赫い鮮血を撒き散らしながら宙を舞っていた。

 魔使君の右手にはいつの間にか、血が滴る剣が握られ、バケモノの貼り付けた笑顔は苦悶に変わり、絶叫にも似た奇声をあげる。


「次」


 魔使君の持つ剣が、炎へと姿を変える。

 目眩がするほど煌々と輝く灼熱の業火は、一点に収束していき、そして――


「――『フレイル』」


 一点に凝縮されていた炎が溢れ出す。

 それらは意志を持っているかのようにうねりながら、バケモノへと向かっていく。


 抵抗のために、バケモノは残っている全てを振るう。

 しかし、炎はその全てを飲み込み、焦し、さらにはバケモノをも呑み込んだ。


「――――ァァァァアアアア!!!」


 全身が燃え爛れていく痛みに、悶え、苦しみ、暴れ出す。

 その姿を見て、魔使君は落胆を滲ませたため息を吐いた。


「身体強度も、耐性も人間と何ら変わらない、か……。どうやらお前から得られるモノはなさそうだ」


 彼の影が伸び、より黒くより濃く変色していく。


「バエル、


 彼がそう言い終えたその瞬間、業火に焼かれるバケモノは突如として霧散していった。

 何が起きたのか。誰がやったのか。

 その全ては、霧散し消えていくバケモノの奥、廊下の先にいた存在を瞬間に理解した。


 バケモノは認識出来ぬほどの早さで、視認できぬほど細かく、と。


 両の手に握られた空色の剣、妖しく煌めく銀白色の装甲、頭部から生えた禍々しさを放つ涅色くりいろの角。

 その異様な風貌、纏う空気。息が詰まる程の存在感。

 直感する。アレは、僕を襲った化物とは比べものにならない程……いや。比べる事すら憚られると感じるほど次元が違う、人智を超えた何かだ、と。


「ご苦労」


 魔使君がそう言うと『バエル』はペコリと頭を下げ、スゥーっと消えていった。

 ソレと同時に、空間を支配していた威圧感も無くなっていた。

 その事に安堵して一息吐いていると。


「さて」


 次は君だ。そう言うかのように、彼は僕の方へ向き直った。

 あれほど化物を圧倒した力が、今度は僕に向けられる。

 そう捉えるのが一般的だろう。

 けれど。


「あ、あの!」


 恐れなくて良い。いや、その必要が無い。

 僕を殺すつもりなら、傷を完治させる意味がない。

 僕を殺すつもりなら、動くなと指示を出す必要が無い。

 それに何より、こちらを向いた彼の笑顔は、教室に入ってきたモノと同じ。警戒心を煽るモノではなく、警戒心を解くための柔らかな笑顔。

 少なくとも今、彼に殺されることは無い。

 ならば。


「目的、目的は何ですか⁉ なんでこの学校に来たんですか⁉」


 突然疑問を投げかけられ、彼は目を丸くした。


 聞きたいことは山ほどある。

 先程の『バエル』と呼ばれた存在は何なのか。

 化物を焼き、僕を一瞬で治したあの力は何なのか。

 そもそも化物の正体は何なのか。


 そして、魔使恵。君は一体何者なのか。


 聞きたいことはたくさんある。けれど彼の目的は、僕にとって真っ先に聞かなければならないことだ。


「――……なるほど」


 小さく笑う。

 どうやら僕の意図に気づいたようだ。


「……私はね、ただ知りたいんだ」


 どこか遠くを見るような目で、ぽつりぽつりと彼は語る。


「脆弱な存在でありながら、この地球ホシの支配者として君臨する人類が、どのような結末を迎えるのか。どのような選択をして、どのような路を歩み、どのような末路をたどるのか。そしてその過程で何を産み落とすのか。私は、それが知りたい」


 人類の、文明の結末を。どのような道を歩み、過程で何を生み出し、どのような終焉を迎えるのか。

 それが知りたいだけだ、と彼は語る。

 とても人間一人が叶えられる夢じゃない。荒唐無稽で、笑い話にされてしまいそうな目的だ。

 ……けれど、そう語る彼の眼はキラキラと輝いていて。まるで純粋そのものの子どものような輝きを放っている。

 とても嘘や冗談を言っているようには見えない。


「そして今は『怪異』について研究していてね。この学校に来たのもそのためさ。物之木高校ここは特別だからね」


 彼の目的は『知る』事。そして僕を襲ったあの化物、『怪異』について調べている。

 ここまでわかれば十分だ。


「それで? ここまで聞いた君は、私に何を提示してくれる?」


 ニヤニヤと、試すように彼は笑う。

 ドクンドクンと高鳴る心臓を落ち着かせるために、ゆっくりと深呼吸する。


「……研究に必要な情報、それらを集めるのに人手は必要、だと思う……。それに――」

「それに?」

「それに一人だと、収集する情報データに偏りが出る。怪異を観察して知見を得ても、一人だと得られるモノは少なく、一側面しか知り得ない。僕なら労働力はもちろん、新たな視点として君の役に立てる……立てます!」


 僕が何よりも優先して目的を聞いた理由。それは僕の有用性を示すため。

 魔使君と居れば、僕はこの世界に居続けられる。

 虚無感で満たされた僕の心を満たしてくれる、この世界に。


「なら君は疑似餌型……君を襲ったあの怪異をどう視る?」


 ――……きたか!

 僕が使えるか測るため、どれだけ有用かを試す。

 当たり前だ。口でなら何とでも言えるのだから。

 ……理想はそのまま助手として側に置いてくれる事だったけど。


 しかしそれほど難しいことじゃない。ただ、僕が感じたことをそのまま口にすれば良いのだから。

 気に入られようとそれらしいことを言うのは意味がない。

 が有用であると示さなければならないからだ。

 だからこそ感じたことを、そのままに――。


「…………不可解と、恐怖と、絶望。それと」


 僕があの『怪異』と相対して最も強く感じたこと。それは。


「――……光と、希望と、期待」


 平凡で、退屈で、虚しさに溺れるしかない世界に差し込んだ光を。

 ワクワクと興奮で生きていると実感できる、これ以上無いほど満たされる世界に出逢えた希望を。

 この世界でなら、充足感を抱いて一歩踏み出せるかも知れないという期待を。

『怪異』に襲われる最中、僕の眼はこれらを映していた。


 僕の返答を聞いた彼は、しばし黙っていたが、ため息と共に口を開いた。


「襲われて、殺されかけた相手に『希望を視た』だと? 極端すぎる。」


 ……そん、な。

 落胆する僕を見て、真顔だった彼はニィっと笑う。


「しかしそのは私には捉えることが出来なかった光だ。研究に際して不足のないよう、力を得た私でさえ、な」

「――じゃあ!」

研究資料データの益不益は私が決める。君はただ、そので観測すれば良い」


 そう言って彼は手を差し出した。


「助手として、私の研究を手伝ってはくれないだろうか」


 差し出された手を強く、強く握り返す。

 この世界は僕の心を満たしてくれる。

 この世界でなら、僕は吉岡悠馬ぼくとして歩き出せる。

 そんな、確信にも似た予感がした。

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